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不登校克服へのストーリー

2009年12月6日に開催された登進研バックアップセミナー70の第1部「不登校克服へのストーリー」の内容をまとめた抄録です。

【事例を通して考える「不登校克服へのストーリー」】
不登校の子どもたちが立ち直るまでのプロセスは一人ひとり異なりますが、そこにさまざまな共通点がみられることも少なくありません。そうした共通点を知ることは、親のかかわり方を考えるうえでも大きなヒントになるのではないでしょうか。

そこで、以下の5人の講師の方々に、これまで出会った印象深い事例にもとづいて、立ち直りのきっかけ、周囲の対応、動き出そうとするときの特徴な言動など、その子が不登校から回復するまでのストーリーをお話しいただきます。

講師:小澤美代子(千葉大学大学院教授)
   木津 秀美(富士見市教育相談研究室長)
   霜村 麦 (臨床心理士)
   小林 和貴(サポート校教師)
   荒井 裕司(登進研代表)

※取り上げる事例については、プライバシー保護のため、地域名・学校名など個人が特定されるような情報は一部削除したり、内容等を一部変更している場合があります。

※講師の肩書きは当時のものです。

【Case 1】講師:小澤美代子

担任の厳しい指導がきっかけで、
小学校1年から6年まで学校に行けなかった女の子

 私は、16年間にわたって千葉県の教育センターで約500人の方々を対象に延べ8000〜10000回にのぼるご相談を受けてきました。そのなかで出会った小1の女の子のことをご紹介したいと思います。個人が特定されないように、内容を少し改変するかたちでお話ししますのでご了解ください。

 この一人っ子の女の子は、小1になって間もなく登校しぶりが始まりました。
 お母さんの話では、担任の先生がとても几帳面で、「きちっとしなさい」と指導も厳しかったようです。一人っ子なのでお母さんもいろいろ気にして、「先生が出した宿題や課題は全部やらなければいけないよ」と話していたこともあり、入学時からかなり緊張した状態だったようです。そこに輪をかけて厳しい先生でしたので、その子は先生の言ったことを1から100まで全部守ろうとして疲れがたまっていき、5月の連休前後から気持ちが重くなり、登校しぶりが始まったそうです。

泣き叫ぶ子を引きずるように学校へ連れて行く毎日

 お母さんはとても真面目な方なので、「学校は行かなければいけないんだよ」という対応をし、先生は先生で「お母さんが甘やかすから休みがちになるんです。何がなんでも連れてきてください」と、対応としては一時代前のような感じなんです。

 それでお母さんも必死になって行かせようとするものだから、その子も仕方なく登校するのですが、教室に入れない。その結果、小学1年生なのに隣の空き教室で先生も誰も付き添ってくれない状態で、ひとりで何時間も過ごさなければいけなくなり、行きたくない気持ちに拍車がかかっていきました。最後にはお母さんが引きずるようにして学校に連れて行き、「行きたくないよ〜!」と校門にしがみついて泣き叫ぶ女の子の指を一本ずつフェンスからはがして教室に連れて行くといった状態でした。

 そのうち女の子は精神的にヘトヘトになって、夜中に「学校が私のほうに倒れてくる」とうなされるようになり、そこで初めてお母さんは子どもを守らなければいけないと気づきます。これまでは先生の指示どおりに動いて、先生側に立っていたけれど、これからは子どもを守るために子どもの側に立たなければいけない。そう思いはじめたのが、小1の夏の終わり頃でした。

再登校に向けて、中学進学という節目を活用

 その頃に私のところへ相談に来るようになったのですが、女の子は「学校に行かなくてもいい」となった段階で、かなり元気になりました。いつ再登校してもおかしくない感じでしたが、なかなか学校に行こうとしません。その後、3年生になって、そのときの担任の先生とは交換日記ができるようになり、そのまま持ち上がりで4年生になってから登校できるようになりました。

 親御さんが喜んだのも束の間、その小学校はブラスバンド部の活動がとても盛んで、実績を上げていることから練習もかなりハードでした。「練習を休んだら大会には出しません」という先生の言葉を鵜呑みにして、「休めない、休めない」と追いつめられ、そこで再びエネルギー切れになってしまいました。疲れて、家からも出たくない状況になり、一度、お母さんの実家のある地域に転校しましたが、ここでも学校の受け入れ体制とかみあわず、また行けなくなってしまいました。

 ただ、この女の子は、お母さんが「基礎学力は大事」という考え方で3年生頃から家庭教師をつけたり、6年生のときは不登校対応の小さな塾に通っていたので、知的レベルは高かったんです。また、塾では別の学校に通っている子どもたちと仲良くなり、学校には行けないものの、かなり元気を取り戻していました。

 その後、中学校からはちゃんと登校しようと思って、また自宅のある地域の学校に戻ってきました。不登校の子どもが動き出すきっかけのひとつとして、小学校から中学校への進学がありますが、その節目を活用しようと考えたわけです。

 加えてよかった点は、ご両親が中学校に入学する前の春休みに中学校に相談に行ったことです。その結果、小学校時代の友だちのひとりを同じクラスにしてもらい、担任も学年主任を務めるベテランの先生にしてもらえました。こうした条件整備をしたことで、中学校入学後は元気に通うことができるようになりました。

頑張りすぎる子にはブレーキをかける

 不登校の子どもたちのなかには、学校に行くとすごく頑張りすぎてしまう子が少なくありません。この女の子がまさにそのタイプで、担任の先生から見ると普通の子ども以上に元気で、不登校だったことなんかみじんも感じさせない。ところが、こういう子は、たいてい1学期の終わり頃に疲れきって、またダウンしてしまうことが多いのです。このような場合は、学校の先生と相談して、生徒会の委員とかクラスの役員などはあまりやらせないようにし、テンションを抑えてもらうような対応をお願いする必要があるでしょう。

 幸いこの女の子はその後ダウンすることもなく、中学校で勉強を頑張って推薦をもらって高校に進学し、また高校で推薦をもらって専門学校に進学し、最終的に就職しました。
 中学校に行けるようになった段階で相談活動は終了しましたが、この子とは今でも年賀状のやりとりをしていて、その後、「結婚しました」という報告の手紙をいただきました。なんと、出会って3日目にプロポーズされたそうで、今まででいちばん安心できる人だからと、相手の住むアメリカに飛んで行ってしまったというのでびっくりしました。

 この女の子のケースは、学校の変わり目を上手に使って再登校にこぎつけた事例ですが、その背後にはご両親がいて、いつも応援してくれていたことも大事なポイントです。

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【Case 2】講師:小林和貴

中学校2〜3年の間、ほとんど登校できなかった男の子が
高校進学後もなかなか学校に行けず…

 中学校時代に不登校だった男の子のケースです。中1のときの欠席は5〜6日でしたが、中2になると120日と急激に欠席が増え、中3では180日にまで至りました。
 私の勤務する通信制サポート校に入学してからも、当初はなかなか登校できませんでした。クラスにもなじめず、定時制高校に友だちがいるのでそこに転校したいと相談してきたこともあります。

サッカー部の顧問の働きかけが転機に

 2年生になってからも五月雨登校は続きましたが、少しずつ登校日数が増えてきました。彼はサッカー部に所属していたのですが、同じクラスにサッカー部の仲間がいたことが大きかったようです。ところが、レギュラーとして出場することになっていたサッカーの全国大会の朝、手足が震えて外に出られない状態になり、大会には参加できませんでした。その日から、また学校とサッカー部から足が遠のいてしまいます。

 その後、彼がお兄さんの所属している社会人サッカーチームでプレーしていることを耳にしたサッカー部の顧問が、「これはいいチャンスかもしれない」と、その社会人チームに参加するようになったのです。つまり、彼が学校に来られないなら、こちらから出向いて人間関係を築こうと考えたわけです。顧問が、知らない人ばかりのチームでうまくコミュニケーションをとって楽しそうにプレーしている姿を見て、彼は「自分も変わらないとダメかな?」という言葉を口にしたそうです。

 それ以降、彼は学校のサッカー部に顔を出すようになり、少しずつ授業にも出席するようになって、しだいに周囲との歯車もかみあってきました。勉強に苦手意識をもっていましたが、福祉関係の仕事に就いているお母さんのすすめでホームヘルパー2級の資格を取得したことで、「自分にもやれるんだ」という自信が芽生えたようです。

「新しい自分を見つけたい」と一念発起

 3年時には、サッカー部の部長を務めるまでになりました。部長は部員たちの投票で選ばれますが、彼自身も「どちらかというと個人主義的な傾向が強く、他人とうまくコミュニケーションがとれない自分のカラを打ち破り、新しい自分を見つけたい」と一念発起し、自分に投票したそうです。それまで眠っていた自信や能力が開花し、新たなステップに挑戦しようという意欲が出てきたのかもしれません。

 修学旅行で台湾を訪れたときには、現地の高校との交流会で2000人の生徒を前に学校を代表してスピーチをするという大役を立派にやり遂げました。「手足が震えていましたが、とても貴重な体験をさせてもらいました」と話している姿を見て、もう彼は大丈夫だなと確信しました。

 ところが、高校3年の秋口になり、また五月雨登校に戻ったことがありました。
 それは進路への不安から来るものでした。大学に行きたいけれど、どこに進んだらいいのかわからない、進路がしぼりきれないと悩んでいたようです。結局、担任の先生のアドバイスもあって、推薦入試で4年制大学を受けることになり、私も小論文対策を手伝いました。そのときの課題は『反貧困〜「すべり台社会」からの脱出』という岩波新書を読んで、その本が提起している社会的な問題点をあげ、自分ならどういう対策や政策を立てるかを述べよというものでした。彼は着眼点や着想はいいものをもっているのに、それをうまく文章化できないジレンマを抱えていましたが、時間をかけて本人の気持ちを引き出しながら、何度も書き直しをして論文を仕上げ、見事合格の通知をもらいました。

 大学進学後、彼は英語の学習意欲に目覚め、現在はカナダに留学中とのことです。
 最後に、お母さんの対応についてふれておきたいと思います。当初、お母さんはわが子に対して「こうあってほしい」という期待を捨てきれず、親も子も苦しい状況が続きましたが、最終的に「この子が生きているだけでいいんだ」と思えるようになったそうです。それからは、ご自分も楽になったし、彼も楽になったようで、それを契機に親子で解決の方向に向かうことができたのではないかと思っています。

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【Case 3】講師:木津秀美

小学校に入学後、
5月の連休明けから学校に行けなくなった女の子

母親同伴の登校で、しだいにひとりで通えるように

 お子さんが小学校1年生で不登校になったりすると、相談に来られるのはたいていお母さんひとりで、お子さんが一緒に来ることはまずないのですが、この女の子はお母さんと一緒にやって来ました。「よく来たね」と言ったら、お母さんが「私の行くところならどこでもついて来るんです」とのこと。それならと、「お母さんが一緒に学校に入れば、お子さんも入れますか?」と聞いたところ、「たぶん大丈夫だと思います」という答えでした。

 そこで校長の了解を得て、5月下旬からお母さんと同伴登校を始めることになりました。最初は、廊下に置いたイスにお母さんと一緒に座って30分ほど授業を受け、慣れてきたら教室に入っていちばん後ろに座り、時間も1〜2時間と伸ばしていきました。やがて、休み時間になると、お母さんの隣にいるその子のまわりに友だちが集まって一緒に遊ぶ風景が見られるようになりました。こうした学校側の特別な配慮もあり、9月中旬にはひとりで登校できるようになったのです。担任がベテランの女性の先生で、包容力がありそうな雰囲気だったこともプラス材料でした。

ひとりで泳げるまで、親が「浮き輪」になる

 たとえば、海が怖かったり泳ぎがあまり上手ではない子は、よく浮き輪を使いますよね。浮き輪を使ってジャブジャブやっているうちに慣れてくると海が怖くなくなり、泳ぐのが楽しくなってきます。そのうち自分から浮き輪をはずして泳ぎはじめたりします。それを不登校に当てはめると、お母さんが人間の海で傷ついたお子さんの浮き輪になり、一緒に泳いでいるうちに、子どもは人間の海に慣れていき、ひとりで泳げるようになるというわけです。そのとき大事なことは、「子どもにとって使い勝手のよい浮き輪」になることです。

 その子は2年生に進級後、長期の休み明けの4月と9月に少し休むことがありました。3年生のときも5〜6月に休むことがあったそうですが、それは、その頃にお姉さんの部活の送り迎えでお母さんが忙しくなり、その影響が出たようです。しかし、その後は順調に運び、今は高校生。お母さんから「元気に通っています」と聞いています。

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【Case 4】講師:荒井裕司

小学校3年から進学塾に通い、
5年生の秋に突然、学校に行けなくなった男の子

15回目の家庭訪問で、初めて聞いた「ありがとう」

 中学受験のために小学3年生から進学塾に通い、5年生の秋に突然学校に行けなくなった男の子のケースです。両親、お兄さん、本人の4人家族で、その子は、お父さんとお兄さんが卒業した有名私立大学を目指していました。小さい頃からサッカー少年でしたが、学校に行かなくなってからはサッカーもパタッとやめて、ひきこもってしまいました。  それから3年間、一歩も外に出ない生活が続きました。

 私は、彼が中学2年のときに家庭訪問をするようになりました。当初は、私が顔を出すとすぐ布団にもぐり込んでしまうような状態でした。しかし、無理は禁物ですから、布団のそばにお土産のお菓子が入ったビニール袋を置いて、「大丈夫だよ」とだけ言って帰ってくる日々が続きました。たしか14回目の訪問時に、行ってみたら彼はテレビの前でサッカーのワールドカップ中継を観ていました。私を見て部屋に逃げようとするので、大好きなサッカー観戦を邪魔してはいけないと思い、「ワールドカップを観ているんだね。ごめん帰るよ」とだけ言って、すぐに帰りました。

 15回目の訪問時、彼はまた布団をかぶって寝ていましたが、「ごめん、また来ちゃったよ」と言うと、布団の中から「ありがとう」と小さな声が聞こえました。私はとても嬉しくなって、「ありがとう」と言って帰ってきました。ここがチャンスと思い、翌日も行ってみると、彼は家族とテレビを観ていて、もうどこにも逃げませんでした。彼のそばで一緒にテレビを観て、世間話をして帰ってきました。

 ポイントになったのは、彼がサッカー中継を観ていたときにサッと帰ったことかなと思っています。自分の大切な時間を認めてくれたと感じたのでしょうか。「こいつは信用できるかな」と思ってくれたような気がします。

夜中のドライブで外に連れ出す

 私とは少しずつ話ができるようになってきましたが、やはり外に出られない生活が続いていました。近所には同学年の子どもたちがたくさんいたので、おそらくプライドの高い彼は、その子たちと顔を合わせるのが嫌だったのでしょう。そこで、周囲の眼が気にならない夜中に車で訪問して、ドライブを兼ねて私の家に連れて行ったり、コンビニを何軒か回ったり、私の行きつけの小さなレストランに連れて行き、事前に私の仲間と待ち合わせて、彼に話しかけてもらうように頼んだこともあります。

 そうこうしているうちに、「学校に行ってみたい」と言い出したので、じゃあ誰もいない夜中に行ってみようと、私が学園長を務める学校に連れて行き、学校中を案内したこともありました。そうした積み重ねの結果、彼は高校入学後1日も休まず登校し、無事卒業を果たしました。現在は海外で仕事をし、ときどきその活躍ぶりをメールで伝えてくれます。

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【Case 5】講師:霜村 麦

小学校3年でほとんど学校に行かなくなった
発達障害をもつ男の子

「親のしつけが悪い」と言われつづけたお母さん

 小学校2年生のときから五月雨登校が始まり、3年生になるとほとんど行けなくなってしまった男の子です。入学当初から落ち着きのなさ、友だち関係のトラブルの多さなどを指摘されていましたが、それについて学校側は、お母さんに「しつけの問題だ」と思わせるような話し方をしていました。問題が起こるたびにお母さんを学校に呼び出し、管理職を含めた複数の先生がお母さんに話をするという、お母さんにとってはとてもストレスフルな状況が繰り返されてきました。

 最初、お母さんは公的な相談機関に行き、いろいろ無料の検査などを受けて、その結果、発達障害の疑いがあると指摘され、私の勤務するクリニックを受診しました。クリニックでの診断後、落ち着きのなさや多動、不注意、衝動性を抑えるなどの目的でお薬が処方されました。学校の先生方にも、クリニックからこの男の子へのかかわり方に関する情報を提供するなかで、先生方も適切な対応についてかなり学習されたと思います。

 発達障害の子どもたちが週に1〜2回程度通える「通級指導学級」にその男の子も通うようにし、加えて、クラスを担当している発達障害に詳しい先生方に、お母さんと学校との仲介役を担っていただくようお願いしました。「通級指導学級」に比較的順調に通えるようになったことが自信になったのか、ふだんの在籍学級への通学もスムーズにいくようになり、小学校を卒業することができました。中学校入学後は「通級指導学級」を利用する必要はなくなり、通常の在籍学級への通学が可能となりました。

対応を変えることで、ウソのようにトラブル解消

 この子の場合は、「通級指導学級」への通学を契機にウソのように対人関係のトラブルなどがなくなりました。お母さんのかかわり方としてお願いしたのは、「なるべく怒らないようにすること」です。「なるべく」がポイントで、人間ですから、どうしても怒りたくなることはあるわけですから。それから、「できたこと」をほめることと、「変化したこと」を子どもに「変わったね、すごいね」と伝えることをやっていただきました。

 さらに、学校で上手に振る舞えたときも先生方に同じ対応をしていただきました。それまでこの男の子は、自分では「いい」と思ってやったことや抑えがきかなくなってやったことに対して、年中叱られっぱなしで、なかば虐待を受けているような状況のなかで育ってきたので、お母さんや先生があまり怒らなくなったり、よくほめてくれたりすることにビックリしたと話をしてくれました。そうしたまわりの対応の変化で、自信を得られることが増えて、学校に行くことがとても楽しくなっていったそうです。

 もうひとつのポイントは、いったん悪化した学校との関係を修復に向かわせたお母さんの心の変化です。大変だったと思いますが、器の大きさを感じます。これまで学校や塾の先生から、お子さんのことでさんざん言われたくないような話を聞かされてきたと思いますが、爆発したい気持ちにフタをして、お子さんが大きく変わったということで、先生方とも波長を合わせて対応することが多くなったということです。もちろん、お母さんの味方になった「通級指導学級」の先生方や公的な相談機関のカウンセラーの存在も大きかったと思いますが、やはりお母さんの気持ちの変化がいちばんの転機だろうと思います。

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【Case 6】講師:小澤美代子

文化祭のまとめ役がうまくできなかったことがきっかけで、
突然、学校に行けなくなった中2の男の子

文武両道でクラスの中心的な存在だった子が…

 この男の子は、不登校になるまでは勉強も運動もできる優秀な生徒でした。クラスの中心的な存在で、その年は文化祭のまとめ役を務めることになりました。不登校の要因を大きく「本人要因」「学校要因」「家庭要因」の3つに分けた場合、「学校要因」のひとつとして、このケースのように委員や役員になって精神的に追いつめられてしまうケースがあります。教師でさえクラスをまとめるのは大変なんですから、まして子どもの場合はどれだけストレスフルな状況かと思います。ここは不登校の要因として注意を要する点です。

 文化祭という学校全体の行事ですから、クラスでどんな企画を立て、どんな展示をするかを期限内に生徒会本部に提出しなければいけません。だんだん期限が迫るなか、みんな勝手な意見を言うだけで、クラスでの話し合いがいっこうに煮詰まらない。彼はまとめ役として半分キレかかって、「いいかげんにしろよ!」と言ったところ、日頃から彼に対してやっかみ半分の感情を抱いていた数人のグループが「お前さあ、勉強もスポーツもできるからって、そんな言い方ないだろう」と猛反発。何人かが「そうだそうだ」と同調したため、クラスの話し合いがグチャグチャになってしまったのです。

 その日、彼は部活にも出ないで帰宅し、布団をかぶって部屋から出てこなくなってしまいました。この状態は、今までなんの問題もなかったのに、短期間に起こった出来事が要因となって起こる「急性型の不登校」に相当します。
 あまりにも急なことで親御さんも非常に心配しましたが、本人に聞いても何も言わない。それまで休んだことのない子だったので、担任も驚いて親御さんに確認の電話をしたり……という日々が続きました。

担任の迅速な行動が功を奏して早期解決

 結局、らちが明かないので、数日後に親御さんが私の勤務する相談機関に連絡してきて、同時期に担任の先生からも相談の申し込みがありました。前兆もなく突然に不登校になった場合は、ほぼ明らかなきっかけがあるものなのです。そこで、ここ数日の間にクラスで何が起こったかを確認するよう担任の先生にお願いしたところ、クラス中が知っている状況でしたから、きっかけはすぐに判明しました。

 事実が確認できたところで、担任の先生は男の子に文句をつけたグループに指導する一方で、彼の家に飛んで行き、布団をかぶって寝ている彼の部屋の外から「きみひとりに文化祭のまとめ役を任せてしまって、困っているのに気がついてやれなくて、先生が悪かったよ。ごめんな。クラスの連中もきみに謝りたいと言っているよ」と誠心誠意、謝罪の言葉を尽くしました。しばらくして本人から聞いたところでは、「クラスメートが謝るかどうかはどうでもいいことだけど、自分が窮地に陥っていることを先生がわかってくれたので、それでよかったんだ」と言って、しばらくすると登校を始めました。

 このケースを不登校といえるかどうかは微妙ですが、実際に不登校が始まった場合はなんらかのSOSのサインと判断して、この事例のように先生や親御さんに早期に対応の動きをしてほしいと思います。

 このケースでも、親御さんは数日後に相談機関でカウンセリングを受けており、担任の先生も危機意識をもって、相談機関への申し込み、きっかけの追及、クラスメートへの指導、本人への謝罪と対策の提示、とすばやく動いています。ここに解決へのポイントがあります。基本は早期発見、早期対応ということです。

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【Case 7】講師:霜村 麦

優等生から一転、自傷行為や赤ちゃん返りなどを始めた
中学2年の女の子

 このお子さんは小さい頃から優等生で手のかからない、お母さんもまったく心配することのない女の子でした。ところが突然、自傷行為や赤ちゃん返りを始めたのです。

 そもそもこのお母さんは家庭内で理不尽ともいえるような環境に置かれていて、常に戦闘態勢で過ごさなければならないような状況がありました。この女の子もそうした状況に敏感に適応し、相手の表情や意図を読み取って行動することに長けていました。ずっとそういう状況でしたから、家庭内の都合に合わせることは得意なのですが、自分の感情や欲求を表現したり、自分の核になるようなものをつくり出すことをしてこなかったのです。人やまわりに合わせてばかりいるので、だんだん周囲に振り回されるようになり、小学校6年生のとき、ついに不適応を引き起こし、リストカットや拒食症の傾向がみられるようになりました。

親子の関係性が変わると、いろいろな変化が始まる

 お母さんとお話ししてわかったのは、お母さんはこれまで大変だった自分の人生を誰にも話してこなかったということです。あまりにも大変な状況だったので感情がマヒしていたのかもしれないとおっしゃっていましたが、私が「それはとても大変だったと思いますよ」と言ってはじめて、「そうなんですかねえ」とようやく実感をともなった話し方ができるような感じでした。「私も大変だったけど、この娘も相当大変だったんです」と涙ながらに話をされたあたりから、いろいろな変化が始まりました。

 何もしなくても、気づくだけで、お母さんと娘さんの関係性というか、かかわり方がものすごく変わっていったのです。そのことが大きなきっかけになったのだと思います。

 まず、娘さんは感情の波が激しくなり、赤ちゃん返りをするようになりました。お母さんのほうも、これまでの緊張がゆるんだことで身体症状が出たり、心身の不調に見舞われたり、いろいろな変化が出てきました。これまで娘さんに対しても感情の波を見せないようにしたりして、自律神経がガタガタになっていますから、睡眠リズムを整えるために睡眠導入剤を服用していた時期もあります。そうしてお母さんの状態が少し落ち着いたところを見計らったように、娘さんの赤ちゃん返りがひどくなりました。これはお母さんが自分を受け入れてくれる状態であることを、娘さんが無意識に感じとっていたからだろうと思います。

学校復帰を第一の目的にはしない

 そこからお母さんの育て直しの作業が始まりました。娘さんに積極的にかかわりはじめたのです。お母さんは、お父さんやきょうだいがあきれるほど、その子に対して「上手だね」「えらいね」と赤ちゃん言葉でほめてあげたり、ときには一緒に寝てあげたり、お風呂で髪の毛を洗ってあげたりしたようです。

 そういうとき、私が勤務するような民間のクリニックの強みというか特徴は、公の教育機関とは異なった働きかけができることです。たとえば、目的(ひとつは、その子が自分の感情や欲求を表現できるようになること)のためには、しばらくの間は不登校や赤ちゃん返りを推奨したり、あるいは「少しいいかげんになりましょう」などと積極的に言えるわけです。その子の場合も、学校復帰を第一の目的にはしないで、「中学生の間は堂々と不登校のままでいましょう」と伝え、そのとき中2だったのですが、「中3になっても学校に行かなくてもいいよ」と話をしました。

 高校受験に際しては、通信制高校を進路先として選んだのですが、お母さんは「保育園に送り出す気持ちです」ということで、当初は送り迎えをしていました。ところが、その子がだんだん「子ども扱いしないで!」と送り迎えを断るようになったのです。それに対して、お母さんも「生意気!」と笑いながら言い返すようになっていました。その一方で、「疲れたとメソメソ泣いて、迎えに来て、というときもあるんですよ」というお話でした。そうした話を聞いて、やっとお母さんも本音で生活されるようになったんだなあと思うと同時に、もう安心だなという思いを強くしました。

 その娘さんについては、通信制高校に通いながら、対人関係の練習を目的にしていきましょうということで、少しずつアルバイトも始めたりして、こちらも幸いうまくいっているようです。ただ、娘さんからの要求とお母さんの思いとの折り合いのつけ方がうまくいかないこともあるようで、そこに関しては第三者を通して調整していく作業を繰り返し行っているところです。大変だった当時と比べると、お母さんも娘さんも雰囲気がガラッと変わったなと実感しています。

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