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体験者が語る「失敗が教えてくれたこと」 第二部
2010年10月23日に開催された登進研バックアップセミナー74の第1部 体験者が語る「失敗が教えてくれたこと」の内容をまとめました。
ゲスト | 橋本 和雄(不登校経験をもつ男の子。現在、大学1年生) 山田 佳子(息子さんの不登校を経験したお母さん) 夏川 幸子(娘さんの不登校を経験したお母さん) |
助言者 | 木津 秀美(富士見市教育相談研究室室長) 荒井 裕司(登校拒否の子どもたちの進路を考える研究会代表) |
司会 | 齊藤真沙美(世田谷区教育相談室心理教育相談員) |
※ゲストの方々のお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。
第2部 ゆっくり休むことで見えてきた自立への道
高校選びのポイントは?
齊藤 | 不登校の子どもたちにとって、高校進学は大きな節目となります。お子さんの進路を選ぶとき、どんな点に配慮しましたか? | |
山田 | 息子から「定時制高校へ行きたい」という希望を聞いたときは、とてもうれしかったです。ただ、定時制は息子には合わないんじゃないかと感じていたので、息子に内緒で他の学校の資料を集め、そのなかから息子に向いていると思われるサポート校を2つ選んでおきました。定時制に合格したあと、息子が安定しているときにサポート校の話をし、やっとのことで一緒に学校見学に行く了解をとりました。 実は本人も、定時制の入学試験や入学金を納めに行ったときなどに、これから同級生になるであろう生徒たちを見て、茶髪の子や服装の乱れている子が多いので、不安を感じていたようです。でも、もう入学金を納めていたので、息子は「定時制に行かないと申し訳ない」と思っていたようで、私は「行きたい学校を選んでいいよ」と何度も伝えました。 ただ、「行きたい学校を選んでいい」とは言いながら、私自身は「定時制は向いてないから、サポート校に行ってほしい」と強く思っていて、息子はそうした無言の圧力を感じていたようです。 2つのサポート校に見学に行った結果、ひとつは横浜にあったんですが、やはり茶髪の子がいたりして息子は自分とは合わないと感じたようで、結局、もうひとつの都内にある学校に決めました。人ゴミが大嫌いだった子が、新宿経由で通うその学校を選んだのには驚きました。ほかがダメだったからというだけではなく、敏感な子が実際に見学に行ってみて、「ここなら通えるんじゃないか」と感じとったのではないかと思います。「一緒に定時制に行こう」と誘ってくれた友だちには、本人が説明して了解をとり、進学後も仲良くつきあっていました。 |
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夏川 | 「親の会」で高校進学の話になったとき、高校入学後にまた不登校になった場合、出席日数不足で挫折することが多いと聞いていました。そのため、娘には出席日数を心配しないで済み、登校できない場合もきちんとフォローしてくれるサポート校がいいと思い、サポート校の合同説明会などに出かけて探しました。 候補に選んだのは2校で、偶然、山田さんとまったく同じ学校でした。そのうち中学校の担任がすすめてくれた1校は自宅に近いため、娘が嫌がりました。もう1校は都内の学校で、親子3人で学校見学に行き、面談もして、娘の希望条件である男女共学、制服があること、好きな陸上の部活があることを満たしていたので、最終的にそこを選びました。決め手は、スポーツ大会の見学でした。すごく明るくて活気にあふれていて、娘にとってはそれがとてもよかったようです。 |
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齊藤 | 橋本くんは最初に入学した高校で不登校になり、その後、サポート校に編入したわけですが、編入のときに学校選びの決め手になったのは? | |
橋本 | これが決め手だ!というものはとくにありませんが、いくつものことが重なってサポート校に行くことになったと思っています。 ひとつは、留年が決まったときに、先ほど話した不登校の友だちが4月から定時制高校に通い始めたことです。それで自分もそろそろ動き出さないといけないなと思いました。また、母が「9月からの編入のタイミングを逃すと2年遅れになってしまうし、最後のチャンスかもね。知り合いのいない新しい環境もいいんじゃない?」とアドバイスしてくれたのも大きかったです。 その後、見学に行ったサポート校が都内にあったので、地元の友だちと会うことも少ないし、自分には合っているなと感じました。校舎も街なかにある普通のビルのような感じで、高校っぽくないというか……。自分としては高校で嫌な思いをしているので、普通の高校のように、みんなでワイワイガヤガヤやっているようなところには行きたくないと思っていたので、そのこぢんまりした感じがよかったです。それらのことが重なって、そのサポート校に決めました。 それもこれも母親が地元だと行きにくいという自分の気持ちをくみとって、都内にサポート校を探してくれたのがいちばん大きな要因だったと思います。 |
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齊藤 | 新しい学校に行くと決めたとき、いちばん不安だったことは? | |
橋本 | いちばん怖かったのは、ひとつ年上なのがバレるのではないかということです。ひとつ上ということで、自分の存在が浮いてしまうのではないか、クラスメートと話が合うだろうか、自己紹介のときに先生に自分の年齢をさらっと言われて、みんなが引いてしまうのではないか……などといろいろ考えて、不安でした。 そういう不安があったせいか、最初の登校日には朝から行けず、起きても「行きたくないなあ」とグズグズしていたのですが、父親が「とりあえず行ってこい」と言ってくれたので、なんとか行きました。行ったら行ったでわりと楽しいというか、新たな高校で新たな人生を歩み出すんだなあという気持ちと同時に、無理して友人をつくらなくてもいいんじゃないかと思ったり、先生も「無理して毎日来なくてもいいよ」と言ってくれたので気がラクになり、不安も軽くなりました。 |
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「今、頑張れるのは、あの学校でゆっくり休めたから」
齊藤 | サポート校での3年間は、どうでしたか? |
夏川 | 入学はしたものの、入学式の翌日からまた通えなくなり、親も子もショックで泣き寝入りする毎日でした。その後すぐに開かれた保護者会で担任の先生に「この学校は、基本なんでもありですよ」と言われ、その一言で気持ちがラクになり、すると娘にもやさしい気持ちで接することができるようになりました。登校するときは、ほとんど私が同伴していました。 保護者会で配布された「クラス通信」には、担任の先生のメールアドレスも載っていたので、それから3年間、家での娘の様子や私自身のつらい思い、うれしかったことなどを折りあるごとに送信しました。それで気持ちがラクになったことが何度もありました。 親が学校を信頼すると、それが子どもにも確実に伝わります。その結果、子どもに安心感が芽生えることを実感しています。「大丈夫。無理しなくてもいいよ」と言い続ける学校を、いつしか娘は「本当に行かなくてもいいんだ」と心から信頼するようになりました。 大学2年のとき、娘は「あの学校で急かされることなく、自分のわがままをきいてくれ、休んでいても温かく見守ってくれたから、今ひとり暮らしをして、つらいこともいっぱいあるけど頑張れる」と言っていました。 |
齊藤 | クラスメートからの励ましもあったとか? |
夏川 | はい。クラスの友だちも、たびたびメールや電話をくれました。学校に行けず、電話にも出ず、メールの返信もしない娘に何度も連絡をくれ、娘は少しずつ校舎内で遊べるようになりました。その間、娘よりも私のほうがたびたび学校に出向いていて、クラスのお友だちと顔を合わせるたびに、「ごめんね、うちの子、返信できなくて。でも、とってもありがたいと思っているのよ」とお礼を言ったり、逆にその子たちから声をかけてもらって、「おばさん、大丈夫だよ!」と励まされたこともあります。 あるとき、クラスの男の子に「どうして登校できるようになったの?」と聞いたことがありました。するとその子は「う~ん、わかんない。なんとなく来れるようになった」と言いました。それを聞いて、本人にも何がきっかけかわからないのかなと思い、やはり待つことが大切とあらためて思いました。 |
やっと入学したのに、また通えなくなって……
齊藤 | 山田さんの息子さんは、サポート校に入学されてからどうでしたか? |
山田 | サポート校の入学式では、「やっとここまで来れた」「この学校なら元気になって、毎日通えるんじゃないか」と、涙、涙、涙でした。3カ月分の定期を買い、お弁当を持たせて送り出しましたが、そのお弁当も食べられずに帰宅し、2日ほど行ったら、また行けなくなりました。 その後、サッカー部の顧問の先生が辛抱強く入部を誘ってくださって、どうにか入部し、「好きなサッカーをすれば元気になるのでは」と期待しましたが、結局、練習にはほとんど行けませんでした。夏休みに通信制や定時制の生徒たちが集まるサッカーの全国大会があり、応援だけでも連れて行こうと当日の朝まで働きかけましたが、やはり動けませんでした。 |
齊藤 | やっと入学できたのに登校できないとなると、お母さんとしてはショックですよね? |
山田 | でも、そのときあらためて「子どもを無理に動かそうとしてもダメだ」「ゆっくり休ませないとエネルギーを充電できないし、動けないんだ」ということを再確認させられ、とにかく「行け行けオーラ」を封じ込め、再び見守ることに専念しようと決めました。 そうこうするうちに1年の暮れから、ホームセンターでアルバイトを始め、それとほぼ同時に、サッカー部の部活にだけ登校するようになりました。当初、本人はサッカーよりもアルバイトを優先していたのですが、兄から「アルバイトはいつでもできるけど、部活は今しかできない」と言われ、考えた末にアルバイトをやめて部活に専念することを決めたようです。そのころは、部活の練習時間に合わせて登校するような感じでした。 2年の夏には念願の全国大会に出場でき、私はうれしくてうれしくて……。グラウンドの芝生の上に立つ息子がまぶしくて涙があふれました。そのころ、他校から転入してきたチームメートと仲良くなり、一緒にサッカー部を盛り上げようと頑張っていて、3年のときには自分から立候補してキャプテンになりました。 |
齊藤 | 橋本くんにとって、サポート校での3年間はどんな感じでしたか? |
橋本 | 自分にとって、サポート校で過ごした3年間はとても楽しいものでした。 入学してすぐのころは、みんなより1歳年上ということもあり、「友だちはべつにいらない」みたいな気持ちで、登校すると職員室に直行して担任の先生と話し、授業には出ずに帰ったりする日々が続いていました。しかし、文化祭がきっかけで友だちができ、楽しい学園生活が始まりました。 担任の先生がとてもいい人だったし、2年になってサッカー部の友だちから誘われて、サッカー部に入ったこともいい経験でした。一時は部活のためだけに学校に行くようなこともありましたが、それをきっかけに徐々に授業にも朝から出られるようになりました。 やはり自分には厳しい校則のある学校は合わず、縛られるような環境はダメだったんだなあと思い、その点、サポート校は自分のペースでやれるし、「毎日来なくてもいいよ」と安心するような言葉をかけてもらったことが、逆に来たくなる気持ちにつながっていったんじゃないかと思います。 |
「消えてしまいたい」ほどのつらさを支えてくれたもの
齊藤 | 不登校期間中、心の支えになっていたのは? |
橋本 | やはり同じ不登校を経験した友だちの存在がいちばん大きかったと思います。会うといつも、「俺たち、このあとどうするんだろうなあ」「こんなんで大丈夫なんだろうか」とか、そういう話をしていましたが、それが気持ちのはけ口というか、ストレス解消にもつながりました。自分のなかでは不登校がコンプレックスになっていて、ちゃんと学校に行っている人とは普通に接することができなかったし、だから彼らがいなかったら、まったく外にも出られなかったと思います。 あとは、家のなかで居心地がよかったことと、母親が話し相手になってくれたことが大きかったと思います。不登校を通して劇的に変化したのは、それまでほとんど口をきかなかった父親と素直に話し合えるようになったことです。 |
齊藤 | 山田さんにとって、心の支えになっていたのは? |
山田 | 一時、私はあまりのつらさに「消えてしまいたい」と思うようになっていました。それで、私自身がメンタルクリニックに通いました。でも、いちばんの支えになったのは、地元の「親の会」への参加でした。また、「行かなくても大丈夫ですよ」と言ってくれる中学校のスクールカウンセラーの先生の存在も支えになりました。 不登校を経験したおかげで、今では毎日、息子とけっこう長い時間、対話ができるようになり楽しんでいます。普通だったら大学生の息子と母親では、なかなかそんなに話はできないんじゃないかなあと思っています。 |
心を閉ざした娘に送り続けたメッセージ
齊藤 | 夏川さんの心の支えはなんでしたか? |
夏川 | 娘が不登校になってから、本当にあらゆる方々にお世話になりました。それが私の支えになっていたと思います。娘の代わりに通院して、そこの先生に私の話を聞いてもらったり、学校のカウンセリングルームにも通い、月1回の地元の「親の会」では日頃の思いを吐き出したりしていました。 親としての私の考え方を180度変えてくれたのは、児童精神科医・佐々木正美先生の『子どもへのまなざし』という本でした。そのなかにこんな言葉があります。「子どもがしてほしいことをしてあげて、子どもが望まないことはなるべくしない」「過干渉ではなく、いい意味での過保護」。それまで私は、これとまったく逆のことをしていたことに気づきました。この本は本当に衝撃的でした。 娘のネット依存を否定していたわりに、実は私自身もネット依存でした。不登校の親が集まるネット掲示板の書き込みを読んでは涙を流し、自分も書き込んだりして、自分の気持ちを何度も何度も整理していた時期がありました。ネット上で同じ悩みをもつ仲間と出会えたことは、大きな心の支えになりました。 |
齊藤 | その間、娘さんとの関係は? |
夏川 | そのころ娘はすっかり心を閉ざし、何を話しかけても一言も答えてくれず、会話がまったくできない状態でした。それでふと思いついて、パソコンのメモ帳に娘へのメッセージを入れておくことにしました。「おはよう、元気?」とか「今日はいい天気だね」といった短いメッセージでしたが、パソコンを立ち上げたときにそのメモ帳が画面上に出てくるようになっているので、娘がパソコンを使うときに見てくれるかなと思ったからです。だからといって、娘からはなんの返事もありませんでしたが……。 その後、私も疲れてしまってその書き込みを中断したことがありました。すると娘から、「お母さん、最近、更新ないね」と言われ、ああ、この子はやっぱり見ていてくれたんだ、楽しみにしていてくれたんだと思って、本当にうれしかった。 |
不登校バンザイ!
齊藤 | 当時をふり返って、あれは失敗だったなと感じることはありますか? |
山田 | 失敗の連続の毎日だったと思います。せっかく少し元気になったのに、私の心ない言葉、ほんのちょっとした一言で、子どものエネルギーを落としてしまう。そんなダメな母親を毎日していたように思います。 今になって反省しているんですが、中学3年の期末試験のとき、担任の先生から「名前を書くだけでいいから」と言われて、登校させたことがあります。文字どおり名前しか書けずに、すごくつらい時間を過ごさせてしまったようです。 最近、英語のTOEFLの試験があり、息子が体調が悪いので駅まで車で送ってくれというので送って行ったんですが、駅に着いても、「今日はダメだ、行けない。ごめんなさい」と言われて帰ってきたことがありました。それは、この中3の期末試験のことがPTSDのように息子の頭というか体全体に出てきて、「いい点数がとれないんじゃないか」とか不安になって体調が悪くなるのかも……と本人が言っていました。 |
齊藤 | やはり不登校だったころのことをひきずっているのでしょうか? |
山田 | でも、ここ1年くらいは、親子で「不登校バンザ~イ!」なんて言って盛り上がることがよくあります。不登校を経験したことによって、息子は人生をより深く考えることができるようになったし、サポート校の友だちは似た思いをしているだけに人生について深い話ができてうれしいとも言っています。私も人生観が変わって、今はものすごくプラス志向で楽しく過ごしています。 |
「お母さんの愛がほしい」
齊藤 | 夏川さんにとって、あれは失敗だったなと感じることは? |
夏川 | 娘とのことでは、とにかく反省することばかりなんですが、まず、小学校のころは交換条件の連続でした。「ゲームソフトを買ってあげるから、来週から学校に行きなさい」などとよく言っていました。ゲームを買ってもらった娘は月曜日からなんとか行こうとするんですが、やっぱり行けない。私は「きのう行くと言ったのに!」と責める。そのくり返しを1年くらい続けました。 しばらくそうして「モノ」で釣っていましたが、さすがによくないと気づき始めたころ、誕生日のプレゼントを「何がいい?」と娘に聞くと、「お母さんの愛がほしい」と言いました。ものすごくびっくりしましたが、それでも私は娘の気持ちに気づきませんでした。小学生の子どもが何バカなこと言ってるんだろうと思ったくらいで……。そうやって何度も何度もSOSのサインを出していたのにずっと気づかず、だから、娘はいじめにあっていることを4年間以上もひとりでかかえていました。 |
齊藤 | その後、夏川さん自身の考え方がずいぶん変わったようですが? |
夏川 | そうですね。娘は中学2~3年ころから「だっこ、だっこ」とせがむようになり、それがずいぶん続きました。でも、私はスキンシップが苦手だったので、娘をちゃんと抱くことができず、顔を背けるようにして抱いていました。本当に愛情の薄い母親だったと思います。夜も「一緒に寝て」というので、2人で布団に入っていました。ところが、そういうことをずっと続けているうちに、だんだん娘が可愛くなってきたんです。自分のなかにそういう気持ちがあることを、娘に気づかされました。私は娘に育てられたと思っています。 中学校の卒業文集に載せる作文を、無理してでも書きなさいと強要したこともあります。娘は締切り日の明け方にようやく書き終えましたが、そのころの私は学校から言われたことは従わなければいけないという考え方で凝り固まっていました。娘にとってはずっといじめられて、楽しいことなど何もない中学校生活でした。その思い出を書けと強要したわけで、本当につらい作業だったろうと思います。 私のいちばんの反省は、自分のなかの「学校崇拝」です。学校崇拝は親の身勝手にすぎないし、「まず子どもありき」でないといけないのに、その順番を間違っていたんです。 |
「交換条件」つきの愛情では子どもは動かない
齊藤 | 木津先生、今、夏川さんのお話に出てきた「交換条件」のことで悩んでいるお母さんお父さんも多いと思うので、そこをもう少し説明していただけますか? |
木津 | こういう問題が相談の場で出てきたとき、私はよく「幸せな馬はどんな馬?」という話をします。鼻先にニンジンをぶらさげて走らされる馬、お尻にムチを打たれて走る馬、広い野原を自由に走りまわる馬。どれがいちばん幸せかといえば、やはり3番目の馬でしょう。つまり、自分の希望するように、自分なりに人生を展開していくことが、誰にとっても幸せということなんだろうと思います。 モノやお金で釣るということも、たまにはあってもいい。たとえば、家族で遊んでいるときに、「あそこまでみんなで走って一番になったら、この西瓜を好きなだけ食べてもいいよ。よーいドン!」みたいな、そういう楽しみとして使うならかまわないんです。 そもそも子どもというものは、たとえば勉強をするときに、「アメをあげるから、もう一問やろうね」といった即物的な誘惑にものすごくのりやすい。しかし、それをくり返し使っていると、逆に使わないことが難しくなってきます。それをしないと動かなくなる。それが怖いんです。 |
齊藤 | モノで釣るかわりに、では、具体的にどんな対応をしたらよいのでしょうか? |
木津 | 何よりも、一家の一員であることの喜びを味わわせてあげることが大切です。たとえば、「玄関の靴をそろえたら10円」というよりも、お父さんが出勤するときに、「この靴は太郎が揃えてくれたのかい? ありがとう。お父さん、うれしいよ」と言葉をかける。そのほうが子どもにとっては、「またやろう」「やりたい」というモチベーションにつながるし、「じゃあ、今度は靴をみがいておいてあげるよ!」と、さらにやる気が出てくるかもしれない。このように子どもの日々のなにげない行動に対して賞賛する、認めるということが日常的に行われている家庭になれば、いちばんいいだろうなと思います。 これは、何も子どもにかぎった話ではありません。お父さんがお母さんの作った料理を黙って食べるのではなく、「おいしいよ」とほめる。お母さんが、残業続きのお父さんに「いつも遅くまでご苦労さま」とねぎらう。普段の暮らしのなかに、そういう家族同士の思いやりのある言葉があふれていれば、それが子どもにとっても当たり前のことになっていくのではないかと思います。 |
いちばんの失敗は、自分の人生を親まかせにしたこと
齊藤 | 橋本くんにとって、あれは失敗だったなと思うことは? |
橋本 | まず、オンラインゲームにはまったことが大きな失敗だったと思っています。あんなに楽しいものはないんじゃないかと思うくらいはまってしまって、外との関係を絶ってまでもネット上の知り合いとかかわることが好きでした。あれは人生を壊してしまう。それ以来、一切触らないようにしています。 何よりもいちばんの失敗だったと思うのは、自分の人生をすべて親まかせにしてきたことです。高校に進学するまで自分では何も決めずに母親にばかり頼んでいて、母親はそれに応えてくれましたが、それはただ自分の甘えにすぎなくて、それが後々ひきこもりにつながっていったのだと思います。 最初に入学した高校も母親が見つけてきてくれて、自分は入試の当日まで校舎を見たこともありませんでした。入学してから、「なに、この高校。わけわかんねえな」と思って行かなくなったんですが、それもやっぱり自分が親まかせにしてきたせいで、そのツケがまわってきて不登校になったと思っています。自分の人生は自分で決めるべきでした。だから、大学は自分で決めたところに進みました。 |
齊藤 | お母さんにも、当時の話を聞いてきてくれたんですよね? |
橋本 | はい。自分としては、母から子に対しての失敗というのはわからなかったんですが、先日、母に話を聞いたとき、当時、母が書いていた日記を見せてくれました。母は「子離れ」をしていない自分をとても悔しがっているようでした。 日記には、「子離れを誓いなさい。私は親として、今、彼にできることはなんなのか、何をすべきなのか。思いは息子にはりついて離れないのに、先の見えない不安について、もう何もしてやることができないのか。何をしてやってはいけないのか。私はどうしたらいいのか」と書かれていました。 母はとても悩んでいたようですが、そういう自分の気持ちを圧し殺して自分に接してくれたことは、自分にとってはとてもありがたかったし、うれしかった。でも、母からすれば、自分の存在はただの苦痛でしかなくて、重くのしかかっているもののひとつだったんだと思います。 |
長いスパンで人生を考える
齊藤 | ここでもう一度、助言者の荒井先生と木津先生にコメントをお願いします。 |
荒井 | 夏川さんの娘さんが小学生のとき、誕生日に「お母さんの愛がほしい」と言ったというお話は衝撃的でした。また、パソコンのメモ帳にメッセージを書き込んで、それがちゃんと娘さんの心に響いていたとわかったときは、本当にうれしかっただろうなあと思います。やはりお母さんが自分の考え方を根本から見直し、対応を変え、娘さんと気持ちが通じ合うようになったことが大きかったのだと思います。 山田さんの「消えてしまいたいと思った」という言葉に胸が痛みました。何よりも先に守りたい息子さんが目の前で苦しんでいるのに、自分には何もしてあげられないという苦しさは、お母さんにとって耐えられないものだったのでしょう。でも、今は息子さんと2人で「不登校バンザ~イ!」と言っていると聞き、本当にうれしく思いました。 橋本くんの場合は、お父さんとのバトルが印象的でした。その結果、今では素直に話せるようになったというのは、彼にとって大きな財産になったと思います。そして、「自分の人生は自分で決めるべきだった」という言葉はすごいなと感じました。 3人のゲストのお子さんたちは、みんな高校に進学して、「やった~!」と思ったけれど、そこにも通えなくなってしまいました。しかし、高校進学は目標ではなく、ひとつのステップにすぎません。大切なのは、最終的にその子が自立していくためには、どのような支援が必要かを考えることです。中学や高校に進学できるかどうかということよりも、もっと長いスパンで人生を考え、その子たちが社会に出たときに「不登校バンザイ!」と言えるようなかかわり方をすることが、何よりも重要だと思っています。 |
しっかり甘え直しをさせてあげることが大切
齊藤 | 次は木津先生、コメントをお願いします。 |
木津 | 不登校の子どもたちは、ある一時期、退行(赤ちゃん返り)することが少なくありません。ゲストのみなさんのお話にも出てきたように、そのときにだっこしたり、一緒に寝てあげて、退行を受けとめてあげることが大変に重要です。 反対に、親のほうから子どもに肩もみをしてあげるのもいい方法です。最初、子どもは「気持ち悪い」「触るな」とか言って嫌がるんですが、何度もくり返しているうちに、お母さんのほうを向いて自分の肩を差し出し、「もんでよ」と要求するようになったりします。そのへんになるとしめたもので、つまり、肩もみという名目のスキンシップをここでやり直すことができるわけです。これをやると、親も子もお互いに元気になります。そのように、子どもが甘え足りない部分があったら、甘え直しをさせてあげればいいんです。 さて、今日のテーマは「失敗が教えてくれたこと」ですが、実はお母さん方だけでなく、私たち相談員もいつも成功ばかりではなく、失敗談もあります。私は20数年、相談員の仕事に携わっていますが、そもそもは教員から急に相談員をやることになったんです。それで、相談員になりたてのころ、適応指導教室に来た中学生の子が居眠りをしていて、私もまだ教員としての意識が強かったので、「なに寝てるんだよ」と叱ったことがあります。 その後、勉強を重ねるなかで、その子が居眠りをしていたのは、そこがその子にとって安心できる場所だったからで、だからこそ熟睡できたんだということに気づきました。叱ってから4年くらいたっていましたが、彼のところに訪ねていって、「あのときはひどいことを言った。許してほしい」とあやまりました。彼は「そんなことあったの?」とまったく覚えていないようでしたが、子どもの心を理解するには非常に時間がかかるし、簡単なことでないと身にしみました。ゲストのみなさんには、本当にご苦労様でしたと申し上げたいと思います。 |
将来の夢や目標は?
齊藤 | 最後に、現在、お子さんがどんな夢や目標に向かって頑張っているかを教えてください。 |
夏川 | 娘は、高校卒業後、小学校高学年のときから馬のお世話をする施設に通っていたことがきっかけとなり、北海道の酪農学園大学に進学しました。その面接試験のときにも娘は一生懸命に馬の話をして、面接官の先生から「あなたが馬を好きなのはとてもよくわかったけれど、うちは馬じゃなくて牛なんだよね」(笑)と言われたそうです。でも、そのとき娘は「牛でも大丈夫です!」と答えたといいます。それからは、お世話をする対象が馬から牛に変わりました。 当初は酪農の仕事に就くつもりはなかったようですが、大学で知り合った友だちの影響もあり、卒業後、今年の4月から網走の酪農牧場で働いています。この夏、家族で牧場に遊びに行きましたが、とてもたくましくなっていました。ただ、頑張りすぎて疲れが出ているようだったので、ちょっと立ち止まって考えることも大事だよと電話で伝えました。 |
山田 | 息子は現在大学2年生ですが、今、不登校によって生じた空白を埋めようと必死に勉強しています。大学1年のとき、カリキュラムの一環としてカナダに4カ月間留学した際、世界各国の留学生たちと接したことが大きな刺激になったようで、英語を一生懸命勉強するようになりました。本人いわく「知的好奇心に火がついた」そうです。その勢いで、現在の大学にもの足りなくなり、3年次からはほかの大学に編入する準備をしています。 |
齊藤 | 橋本くんの夢は? |
橋本 | 今のところ、夢といえるようなものはまだありませんが、自分としては普通の人生を歩みたいと思っています。先のことなので、まだわかりませんが、もし父親がいいと言うなら、父親の仕事である不動産業を継ぎたいと考えています。 |
齊藤 | 夏川さん、山田さん、橋本くん、思い出すのも嫌なこと、つらい思い出もあったと思いますが、率直に話していただき、本当にありがとうございました。また、夏川さんと山田さんはお子さんに、橋本くんはお母さんにも話を聞いて、今日に備えてくださいました。ここには出席しておられませんが、そのお子さんたちやお母さんにもあらためてお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました(拍手)。 |