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登進研バックアップセミナー55・第二部 講演抄録
大切なことは、すべて子どもたちから学んだ
~修学旅行への強い思い~
講師:荒井裕司(登進研代表)
私は30年ほど前から、不登校やひきこもりの子どもたちとかかわってきました。基本的には親御さんからの相談を受けるなかで、どうしても、子どもたち本人の顔を見ながら話をしたいと思うようになり、自分から子どもたちに会いに行くしかないと思い、夜討ち朝駆けではありませんが、家庭訪問を続けてきました。
どんなことをしてあげれば、子どもたちのその後の人生に役立ち、支援につながるのかと考え、試行錯誤をくり返しながら続けてきました。そのなかから、子どもたちとのかかわりをつくることができた事例を二つお話ししたいと思います。
家族が企画した“修学旅行”
まず、小学校3年生のとき、担任の先生に対する不信感から不登校になったA君は、私が相談を受けたとき18歳でした。授業中に先生が子どもたちに順番に質問し、答えさせるとき、彼の番に来たら「おまえはいいや」と飛ばされたのが不登校の理由でした。ものすごい大きなマイナスの体験だったはずです。以来、学校にはいっさい行かなくなっただけではなく、「ボク、これから何もしゃべらないから」と宣言。その後、家族は何年間も彼が話すことを聞いたり、書いたものを目にすることはなくなってしまったのです。
ただ、本人のなかには、とくに中学校の修学旅行には行きたかったという気持ちが強かったようです。修学旅行のたびに、持っていく荷物をまとめ、準備を整えて、ワクワクしながら寝るわけですが、当日の朝になると行けなくなってしまう。そのくり返しだったからこそ、修学旅行に行きたい気持ちは、ずっとあったようです。
家族もそんな彼の気持ちを察して、家族主催の修学旅行に行こうと企画を立て、修学旅行と同じ行程で奈良、京都に一泊ずつする旅行に連れて行ってくれたのです。ところが、奈良に一泊した夜、旅館に「親戚に不幸」の電話連絡が入り、やむなく、家族一同は明日は京都という日に、また東京にトンボ返りをせざるを得ませんでした。
ボロボロの靴が物語る京都への熱い思い
A君には、どうしても修学旅行を実現したい気持ちが強く残っていたようです。その後、彼は家出をくり返します。ただ、何もしゃべらない彼が電車に乗って家出をするたび、目的地の駅のホームから自宅に無言の電話をかけ、「せんだい~、仙台です。仙山線にお乗り換えの…」と、自分の居場所を彼流に知らせるようになっていました。
ある日、家族のもとに静岡の警察からA君を保護しているという電話が入りました。靴はボロボロで、何も食べていない状態なのに、いろいろ質問しても何もしゃべらないので、持ち物のなかから会員権を見つけ、ようやく自宅の電話番号がわかったらしいのです。
では、なぜ静岡なのか。ご両親の話では、家族での修学旅行で行けなかった京都にどうしても行きたくて、一人で行ったのではないかということでした。ところが、帰りの乗車券が途中までしか買えず、しかたなく名古屋あたりから徒歩で帰ろうと、靴がボロボロになるほど歩き続け、ようやく静岡で保護されたらしいのです。A君のなかに修学旅行に対する強い思いがあったことがわかります。
9年ぶりに書いた自筆の文字
彼の母親から家庭訪問をお願いされ、彼と会うようになりましたが、最初の頃は何も話してくれませんでした。ただ、ひとつ気づいたのは、テレビのお笑い番組を見ていたとき「ニコッ」と笑顔を見せたのです。「これだっ」と思い、まず、お笑いのネタをたくさん仕入れました。やがて、お笑いをきっかけにして、やっと彼と会話ができるようになり、少しずつ気持ちも通じ合うようになっていきました。
そんなある日、彼に名前も聞いていないし、教えてほしいと言ったら、A4の用紙にすごく小さい字で名前を書いてくれました。それは不登校になって以来、初めて書いた文字でした。9年ぶりに彼の字を見たお母さんは「奇跡が起きた」とボロボロ涙を流していました。
A君は18歳になっていましたが、私どものサポート校に入学することになりました。私どもの学校には、彼と同じような経験をした生徒がたくさんいますから、たとえ彼が何も話さなくてもクラス全員で受け入れてあげようと話し合いをしました。そして、彼にクラス委員長になってもらいました。「何も話さない生徒をなぜ委員長にするの?」という疑問もあるかもしれません。しかし、結果的には、ひとこともしゃべらないA君を助けてあげようと、クラスメートが頻繁に言葉をかけることによって、クラスにまとまる力が生まれ、学級運営もスムーズにいき、なにより彼のなかに自信が芽生えていったのです。
最終的に大学に行きたいという意欲も生まれ、志望する大学を含めて8つの大学すべてに合格しましたが、かなり必死に勉強していたということです。そして、現在は社会人として自立した生活を送っています。
A君の場合、家族をはじめまわりの人たちが、彼のペースに合わせて支援したことが奏功したような気がします。厳格だった父親も彼の不登校によって考え方が柔軟になったようで、よき理解者となり、家族に絆が生まれたことも大きかったようです。また、入学したサポート校のクラスメートが気持ちよく受け入れてくれたこと、学校と家庭が彼の自信回復に至るプロセスに関する情報を共有したこともポイントかもしれません。
父親的な存在を求める女の子
中1のときに友人関係に苦しみ不登校になったB子は、私と出会ったときは中3になっていました。一人っ子で母親と祖母の3人家族。少し社会性に乏しい面があり、俗に言うブリッ子のような感じの女の子でした。
学校のなかで、女の子はよくグループをつくりますが、彼女の場合は一つのグループにじっとしているのではなく、あっちこっちのグループを行ったり来たりするものですから、どのグループからも拒否される状況にありました。それがエスカレートして、トイレでいじめを受けるようになり、部活でも徹底したいじめを受けてしまうのです。
どちらかというと、母親は直線的なものの言い方をするため、彼女には風当たりが強かったので、祖母が彼女の味方のような存在で精神的な救いだったようです。しかし、その祖母が亡くなってから、ずっとひきこもるようになってしまいました。
家庭訪問をすると、彼女の部屋に入れてくれて、直接、話をすることができました。ただ、父親がいないため、彼女は父親的な存在を求めていたこともあり、よく夜中の11時とか12時頃にSOSの電話が入ります。その都度、私は彼女のところへ出かけて行くのですが、泣きながら苦しい思いをぶつけてきたり、そんなことをくり返していました。
怪しい目にさらされた二人だけの“修学旅行”
あるとき彼女が、「修学旅行に行っていないので、先生と一緒に行きたいから、1日だけ時間を空けてほしい」と言ってきました。
私が、「いくら相談にのっている立場だとしても、女子高校生と宿泊旅行なんか行けるわけないでしょう」と言ったら、「日帰り旅行だから大丈夫だよ」と言います。「そうか!それならいいよ」と快諾して、二人で読売ランドに行くことになりました。
彼女はクラスメートにいじめられたり、傷つけられたりしていますから、同世代の女の子と会う可能性のある電車が非常に苦手です。そこで、母親が待ち合わせ場所の渋谷まで車で送ってきてくれました。
読売ランドに到着し、チケットを買うときに、あらためて気づきました。11月ということもあり、彼女はキティちゃんのピンクの耳当てをし、キティちゃんのバッグ、キティちゃんのぬいぐるみを持ち、全部ピンクで統一していますから、すごく目立ち、「これはヤバイな!」と思ってしまいました。
当日は平日ですから、大学生のカップルが多かったのですが、そうした若者たちが、どう見ても不釣り合いな私たち二人を「あれは援助交際だ」という疑いの視線を投げかけてくるのがわかるのです。私はそれを払拭しようと、食堂のなかでわざと父親役を演じたふりをして、「おまえ、大学受験はどうするんだよ」と大声を出したりしました。
しかし、彼女は父親的な存在を求めていますから、私と腕を組んで離しません。そのため、私の名演技もむなしく、読売ランドの園内では、ずっと周囲の怪しい目にさらされながら、仮の父と娘は緊張感のある楽しい1日を過ごしたのです。
気持ちを前向きにした「麦畑」
しかし、その後も彼女は家の外に出ることができなかったため、外に出られるようにいろいろな方法を試してみました。
ひとつはカラオケです。歌をうたったり、声を出すことによって、気持ちが前向きになったり、元気になったりすることがあります。そこで、カラオケに行こうとしたら、彼女の足がパタッと止まり、「カラオケボックスに入ったことがないから怖い。」では、一緒に入ろうと手をとったら、ようやく入ることができました。
すると、私が「オラと一緒に暮らすのは……」と歌ったあとで、彼女の番が来ると、恥ずかしそうに「やんだたまげたなー」と言葉をはさんでくれました。やがて曲にも合わせてくれるようになり、しっかり歌えるようになりました。
それ以降、二人でカラオケに行ったときは、出だしも「麦畑」、締めの一曲も「麦畑」を歌うにつれて、彼女の気持ちも少しずつ前向きになっていきました。
その後、アルバイトも経験しながら、徐々に社会性も身につけ、学校の行事にも参加するようになりました。やがて、好きなことも見つかり、キティちゃんに象徴されるキャラクターづくりに興味を示し、最終的には縫いぐるみを作る会社に就職しました。
父親像を追い求める彼女の希望に添いながら、私が彼女と風当たりの強い母親との間に緩衝材として入り込めたことがポイントだったかもしれません。また、最終的には彼女の就職と結びつくのですが、オリジナルのキャラクターを作り、それを作品展に出品するために作品集を作る作業を支援してあげたことも、彼女の自信につながったかもしれません。