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登進研バックアップセミナー43・講演内容
不登校―気になるきょうだいへの影響
講師 | 前川 あさ美 (東京女子大学教授) |
私は、地域の総合病院の小児科で子どもたちやご家族との面接を行っています。また、東京女子大学のオフィスでもカウンセリングをしています。
そこで不登校やひきこもりの子どもたちとご家族の話を聞いていて、その背景にある、きょうだいの問題に関心をもち、きょうだいの心にもっと真剣に耳を傾けなければいけないと思うようになりました。実際に、7〜8年前のことですが、私のところに面接に来ているクライアントのきょうだい17人に面接調査をしたことがあります。
今日はその調査結果を交えながら、また現在、私が出会っているきょうだいたち、お母さんお父さん、不登校やひきこもりという体験のなかで新しい自分になろうとしている子どもたちの言葉を交えながら、みなさんと一緒に考えていけたらと思っています。
「きょうだいのことまで手が回らない」
わが子が不登校になったとき、親はいろいろな情報を収集したり、このようなセミナーに参加したり、本を読んだり、子どもを教育相談所やクリニックに連れて行くなど、たくさんの時間や労力や精神力をその子のために注ぎます。仕事をしていたお母さんは一時辞めたり、シフトを変えたりというように、その生活は不登校の子どもを中心にして回っていくような感じになります。「実際、きょうだいのことまで手が回らない、気が回らない。気を回してあげたくてもできないんです」と、本音を話してくれたお母さんもいます。
不登校になった本人には怒りをぶつけることができないので、不安や不満の矛先がきょうだいに向かってしまうこともよくあります。自分のイライラの原因はこの子にあるのではないとわかっていても、ついささいなことで叱りつけたり、「それくらい自分でやりなさい!」と怒鳴ってしまう。多くのお母さんが「八つ当たりだとわかっているんですけど、どうにもならなくて……」と言います。
もうひとつ、多くの親御さんの話を聞いていて思うのは、きょうだいに対して気持ちのどこかで「あなたは(・・・・)頑張りなさいよ」と思っているところがあるような気がします。不登校の子どもに対しては、その状態を一生懸命受け入れようとしているのに、きょうだいのほうを向くと、「あなたは頑張りなさい」「不登校になんかなっちゃダメよ」と思ってしまう。あるお母さんは、「下の子には『それくらいの熱なら大丈夫よ。早く学校に行きなさい』って言えちゃうんですよね」と話してくれました。
そんな親御さんに対して、きょうだいはどんな思いを抱えているのか。また、不登校になった兄や姉、弟や妹に対して、どんなふうに思っているのか。彼らの心理を面接調査した結果をこれからお話しします。
共通する「怒り」「嫉妬」「罪悪感」…
不登校の子どものきょうだいには、保育園児から大学生に至るまで年齢に関係なく共通する心理がありました。まず、ひとつは「怒り」の感情です。「お兄ちゃんはずるい」「私のことはどうでもいいのか」「私だっていろいろあるのに、どうしてお兄ちゃんだけ大事にするんだ」「甘やかすんだ」と、彼らは感じています。お母さんに「それくらいの熱なら学校に行きなさい」と言われた下の子は、「お兄ちゃんには『無理しないでいいよ』とか言うのに、なんで私には行きなさいって言うんだ!」という怒りを抱えていました。
ところが人間の心は不思議なもので、まずは「怒り」や「腹立たしさ」を訴えるのですが、さらに話を聞いてみると、そうやって腹を立てている自分に対して罪悪感を感じていることもわかってきます。「ずるい」「受け入れられない」「腹が立つ」と思ってしまう自分はよくないんじゃないか、恥ずかしいことじゃないかと思っているのです。
人間の感情には、幸せ、心地いい、ホッとする、美しいといった、いわゆるポジティブなものだけではなく、恨み、嫉妬、怒りといったネガティブなものもあります。いずれもその子が感じた素直な心の動きであり、どちらがいいとか悪いとかという問題ではありません。しかし、私たちは小さい頃から、親や教師から「いつまでも怒ってないで」とか「グジュグジュ言わないの」「焼きもちを焼くのはやめなさい」というように、ネガティブな感情を抱くのはよくないと教えられてきました。
そのせいか、きょうだいが感じる「怒り」は当然なのに、そして、自分が怒りを感じていることを否定する必要はないにもかかわらず、怒りを感じている自分に対して罪悪感をもってしまっているのです。 罪悪感はそれだけではありません。「お兄ちゃんがひきこもっているのは私のせい?」「妹が学校に行けないのは僕のせい?」と思っている子どもたちもいます。
「あのとき僕が妹の教科書に落書きをしたから、それで学校に行けなくなったんじゃないか」と話してくれた男の子に、「それ、お母さんに言ったことある?」と聞くと、「誰にも言ったことない」。自分のせいで妹が学校に行けなくなって、お母さんやお父さんを苦しめているんじゃないか。そんな罪悪感を、ずっとひとりで抱えていたのです。
そのほか、「いいなあ」「うらやましいなあ」「僕だってほんとは行きたくないのに」「私も休みたかった」という嫉妬の感情。お母さんもお父さんもお兄ちゃんのことで手一杯で自分のほうを見てくれないという「孤独感」や「見捨てられ感」。「僕のことなんか、どうでもいいんだ」と話してくれた子もいます。
また、親御さんの「あなたは頑張りなさい」という気持ちを察して、「お兄ちゃんの分も私が頑張らないと」「親をこれ以上困らせちゃいけない」「私がしっかりしなきゃ」「我慢しなきゃ」というプレッシャーを自分自身にかけている場合もあります。こうした感情は年齢に関係なく、たとえば保育園や幼稚園の子どもでさえ「いい子でいなきゃ」と思っていたりして、びっくりすることがあります。
思春期以降にみられる独特な感情
思春期以降の年齢のきょうだいには、これらの感情にプラスして、ちょっと独特な心の動きがみられました。
これまでお話しした「怒り」は、親に対する怒り(「甘やかしてるよ!」等)、不登校になったきょうだいへの怒り(「甘えてんじゃねーよ」「なんでちゃんと学校行かないんだよ」等)が主ですが、小学校高学年くらいになると、「どうしてみんな理解してくれないんだろう」「なんで先生はお兄ちゃんのことを悪く言うんだろう」といった社会に対する怒り、世間の人々に対する怒りが出てくるようになります。
同時に「恥ずかしさ」や「戸惑い」の感情も出てきます。「家に友だちを呼べない」「お兄ちゃんが学校に行ってないことは誰にも言えない」「ボーイフレンドにどう話したらいいんだろう」といった恥ずかしさや世間体を気にする気持ち、「学校で楽しいことがあっても、その話をするとお姉ちゃんに悪いような気がする」といった戸惑いなど。
もっと年齢が上がると、「この先どうなるんだろう」「私も同じようになるんだろうか」「わが家はどうなっちゃうんだろう」といった先々への不安を抱くようになります。
なかには、「知らない」「関係ない」「あの人のことはあの人の問題だから」と言うきょうだいもいますが、彼らの話にじっくり耳を傾けていくと、本心からそう言っているわけではなく、「関係ない」と割り切ることで、必死に自分を守ろうとしていることがわかります。このような子どもは、親や不登校をしているきょうだいに批判的な目を向けているのかと思うとそうではなく、逆に、世間の見方(無理解)に対して非常な怒りをもっており、不登校をしているきょうだいへの理解者、家族の代弁者であることが窺えます。
きょうだいが発信するSOS
これらの感情は、お母さんお父さん、不登校をしているきょうだいに向けて語られることはほとんどありません。ただ、口には出さなくても、さまざまな行動の変化というかたちでSOSを発信しています。涙もろくなる、イライラしやすくなる、ささいなことでキレてしまう。忘れ物やなくし物が多くなる、授業に集中できない。外遊びが好きだったのに、放課後まっすぐ家に帰ってきてひとりでゲームをしている、などなど。
妹が不登校になってから、お姉ちゃんがお母さんのひざの上に座りたがるようになったり、やたらと甘えるようになったというケースもあります。逆に、ものすごく一生懸命勉強して、塾も毎日行って、家の手伝いもたくさんしてくれて、というように過剰適応型の “いい子”になってしまう子もいます。
なかには学校に行けなくなってしまう子もいます。私が面接をした17人のきょうだいたちのうち、一時的なものも含めると約3分の1の子が不登校になっていました。
こうした状況は、最初に不登校になった子どもにも影響を及ぼします。不登校の子どもたちは、もともと敏感で鋭いアンテナの持ち主ですが、家にずっと閉じこもっていることでさらに敏感になっていきます。ですから、家の中で起こったことや家族の心理状態は、当然その子に大きな影響を与えます。
家族に変化が起きるとき、それはどこか一部だけの変化では終わりません。ルービックキューブという立方体のパズルがあって、みなさんもご存じだと思いますが、あれは1面の色を揃えるのはわりと簡単なんです。ところが、6面全部を揃えようとすると、一度揃えた面を崩さないといけない。「せっかくきれいに揃えたのに……」と思うけれど、揃った1面をそのまま崩さずに、他の5面を揃えるのは無理なんですね。
家族の面接をしているときにも、同じようなことを感じます。元気で学校に行っている弟のほうはそのまま変わらずにいてほしいと思っても、それはルービックキューブのジレンマと同じで、家族のどこかに変化が起これば、必ず全体になんらかの変化が起こる。お兄ちゃんが不登校になれば、きょうだいにも影響があり、そのきょうだいが学校に行けなくなれば、最初に不登校になったお兄ちゃんにも影響が及ぶ。逆にいえば、全体に変化を起こそうと思ったら、まず1面をきれいに揃えて、次に別の1面を揃えて……というやり方ではダメなんだなあと、つくづく実感しています。
きょうだい2人が不登校になったときの親の反応
きょうだい2人が不登校になったときの親の反応は、ひとり目の不登校のときとはちょっと違っていて、大きく2つのタイプに分けられます。
①無力感や親失格の思いに押しつぶされてしまうタイプ
ひとつは、徹底的に無力感に押しつぶされてしまうタイプです。ひとり目だけでも「私の育て方が悪かったのか」と罪悪感や自責の念にさいなまれているところへ、2人目、3人目、4人目というケースもありましたが、そうなると誰がどう慰めようと、あるいは客観的に明らかな外的要因があっても、「自分は親として価値がないのではないか」「親失格ではないか」という思いに押しつぶされてしまいます。こうなると親としての力がものすごく低下してしまいます。
多くのお母さんがためらいがちに、「正直、なんであなたまで……と思いました」「裏切られたような気持ちです」「でも、私がこんなことを言うってことは、結局、最初に不登校になった子を裏切っていることになるんですよね」と言います。
つまり、子どもと一生懸命向き合って、不登校を受け入れよう、理解しようと思い、自分では「否定的な目で見なくなった」「受け入れることができた」つもりだったけれど、2人目が不登校になったとき、「なんで?!」と裏切られたような気持ちになるのは、結局、わかっていなかったんじゃないか、と言うのです。そのことで、また二重三重に自分を責めてしまうということがあります。
このような母親の様子を目にすると、最初に不登校になった子も深く傷つきます。「やっぱり、わかったふりしているだけだったんだ」「弟が不登校になったら、あんなに落ち込んで」「結局、僕のことなんにもわかってなかったんだ」。
②わかったつもりになってしまうタイプ
もうひとつは、ひとり目のときほどうろたえないというか、ひとり目を経験したことで半分専門家のようになってしまい、妙にものわかりのいい対応になるタイプです。
最初のときのような子どもとの壮絶なバトルもなく、心配で食事ものどを通らなくなったり、自分を責めたりというドロドロした部分もスーッとなくなって、「子どもが大きく変化する大事な時期だから、黙って見守ります」「この子の人生だから、この子が動くまで待ちます」とおっしゃるんですが、現在のそうした心境は、当初の壮絶な状態を乗り越えて、そのプロセスがあったからこそ今があるんだということ、それがすごく大事だということを忘れないでほしいと思っています。
人間を理解するための「近道」はありません。ついつい近道をして、そのプロセスを省略し、「子どもを受け入れる」「理解する」というゴールに着いたつもりになってしまうことは多いけれど、実はゴールに立つことよりも、ゴールに向かってあきらめずに歩き続けること、少しでも理解しようと努力し続けることのほうが大事だと思っています。そもそも人を完全に理解することができるのか、と考えたとき、近道をして「理解した」つもりになっていることはとても危険なことです。
ひとり目がこうだったから2人目も、と思うのではなく、「もしかしたら、この子は違うんじゃないか?」「わかっているつもりで、わかってないんじゃないか?」。頭の中にそういう「?」マークをできるだけたくさんもつこと。これは簡単なようで、なかなか難しいし、勇気のいることです。わからない状態というのは不安で苦しいものです。
だからこそ、その支援にはどういうものがあり、どういうところで支援を受けられるのかを知っておくといい。苦しい道のりに寄り添ってくれる、あきらめそうになったときに支えてくれる、そういう支援があることは力になるはずです。ときには親だって、一瞬あきらめそうになっていい。そのときに、横であきらめないでいてくれる人がいる。そのことに家族が気づいたとき、またそこから「わかりたい」という道を歩きはじめることができる。そういう意味で、支援というものがとても大事だと思っています。
いずれにせよ、2人、3人と不登校になった場合には、きょうだいが抱える怒り、孤独感、罪悪感、嫉妬などの感情はますます強まっていきます。
また、最初に不登校になった子は、自分のきょうだいが抱く感情や、2人目、3人目の不登校を抱えた親の反応を見て、何も動じないわけがありません。一時、良好だった親との関係が一気に崩されてしまうこともあります。
きょうだいをサポートするために必要なこと
「お兄ちゃんの前で、学校の楽しい話をしないでね」とお母さんから言われた男の子がいました。この子は、お兄ちゃんの気持ちがよくわかる子で、リレーの選手に選ばれたとか、市の絵画コンクールで金賞をとったとか、どんなにうれしいことがあっても家では口にしないで、ずっと我慢してきました。
ところが、あるとき、ささいなテレビのチャンネル争いでキレてしまって、「どうして自分がこんなに我慢しなきゃいけないんだ!」「僕、お兄ちゃんのせいで友だちも呼べないんだよ!」と、兄を叩いたり蹴ったり物を投げたりして大喧嘩になりました。そして翌日、その子は学校を休みました
お母さんは、血相を変えて相談にみえました。私はお母さんと一緒に、今までその子はどんな気持ちだったんだろうということを振り返ることにしました。親というものは、あんまり意識してないと言いながら、どこか目の隅で子どもを見ているんですね。振り返ると、「そういえばあのとき……」ということがたくさん出てきました。そのなかで、「じゃあ、今からできることはどんなことだろう」という話になりました。このケースに始まって、いくつかのケースで「こんなことをしてみたらどうだろう」と考えたことを5つにまとめてみました。それをご紹介します。
きょうだいの成長を支えるために最小限必要なこと(5つの共有) |
①きょうだいの経験する感情や思いに耳を傾ける→きょうだいの感情の共有 ②家庭内で、不登校や不安などに関する知識や情報を共有する→情報の共有 ③親の抱える感情や思いを分かち合う→親の感情の共有 ④きょうだいと親との特別な時間を創り出す→時間の共有 ⑤きょうだいの選択を受け入れ、彼ら自身の生活を尊重する→その子らしく生きる権利の共有 |
①きょうだいの感情や思いに耳を傾ける
まず、いちばん大事なのが、①の「きょうだいの経験する感情や思いに耳を傾ける」ということです。親からみればあまり好ましくないと思える感情であっても、今、きょうだいが味わっている感情や思いにしっかり耳を傾けてほしいと思います。
「嫉妬やねたみの感情も認めてしまっていいんですか?」と心配する親御さんがいますが、嫉妬によって相手を刺したとなれば決して認められませんが、嫉妬という感情そのものは、とても大事なその子の一部として認めてあげてください。
どんな感情も否定、批判、修正をせずに、「そんなふうに感じるのはよくない」「それはこう感じるべきだ」などと言わずに耳を傾けてほしいのですが、これはけっこうつらいです。親への非難や腹立ちを口にする子もいて、「お兄ちゃんを甘やかしすぎだよ!」と言われたり、それがまた図星だったりするのでグサッときます。だから、「子どもの感情に、動揺せずに耳を傾けるなんてとてもできません。ヘナヘナになっちゃいます」というお母さんもいますが、私はヘナヘナになってほしいと思います。
子どものことでうろたえない親の姿というものが、どれだけ子どもの「見捨てられ感」を強めるか。そういう意味では、親がヘナヘナになること、動揺することはとても大事であり、正直な姿を子どもと共有する意味でも重要になってきます。
そうやってきょうだいの話に耳を傾けているうちに、「お兄ちゃん、むかつく!」と言いながら、一方で「お兄ちゃん、どんな気持ちなのかな?」と心配したり、人の心というものは本当に一通りの色ではないんだなと実感します。耳を傾ければ傾けるほど、いろいろな色をした感情がたくさん出てきます。
もちろん今までそういう姿勢でなかった親が急に話を聞こうとしても、素直に話してくれるわけがありません。最初は、「今日はあなたの話をしっかり聞きたいから話してくれるかな?」といった感じで話しかけてみる。でも、そうやってチャンスをつくったとしても、一度で話してくれるとは決して思わないでください。少しでも早く子どもの気持ちを知りたいとつい欲張ったり、先を急ぐ気持ちはわかりますが、相手の感情に耳を傾けるという過程は、ゆっくりと、ときにためらいながら、ときに動揺しながら、時間をかけて進めていってほしいと思います。
このように感情については、とにかく否定や修正をしないで耳を傾けてほしいのですが、ひとつだけ、「自分のせいで、お兄ちゃんが学校に行けなくなった」という思いに関しては修正をしてあげてください。「お姉ちゃんが人と会えなくなって、対人恐怖みたいになっちゃったのは僕のせい?」と聞いた子がいます。そのときは、お母さんがお姉さんに直接聞いて、「そんな下らない理由で学校行ってないんじゃないよ」と即座に否定されたそうですが、そういう歪められた誤った思考や思いに関しては、修正をしてあげてほしいと思います。
②不登校や不安に関する知識や情報を共有する
②の「不登校や不安に関する知識や情報を共有する」では、不登校になっているお兄ちゃんやお姉ちゃん、弟や妹が、今、どんな状態なのか、どんなことに不安を感じているのか、あるいは、世の中では不登校のことはこんなふうに言われているとか、親御さんが知り得た知識や情報をきょうだいと分かち合ってほしいと思います。
「でも、わたし不登校のことよくわかってないから、どう説明したらいいのか」と言う親御さんもいますが、お母さんお父さんがわかっている範囲で話をすればいいんです。もし、お母さんお父さんにもわからないことがあれば、その「わからない」ということも含めて、きょうだいと共有する。
「不登校」とひと口に言っても、ひとつとして同じケースはありません。そもそも人は、一人ひとりすべて違う。見方も考え方も感じ方も違う。その「違い」を家族で共有することが大切であり、とりわけ不登校の子どもを抱えた家庭では「正しいこと」の共有よりも、「違い」や「揺らぎ」の共有が重要になります。「不登校とはこれこれである」という正しい答えがあればどんなに楽だろうと思いますが、その答えは一人ひとり違う。「答えは、Aかもしれないけど、Bかもしれない」と揺らぎながら、みんなで答えを探していくことが大切です。
お母さんがわからないときは、「じゃあ、あなたはどう思う?」と聞いてみるのもいい方法です。たとえば、「お兄ちゃん、学校行かなくていいわけ?」と聞かれたとき、お母さんも答えに迷うわけです。「いい」とも言い切れないけど、「いいのかもしれない」とも思う。そんなとき、逆に「あなたはどう思う?」と問いかけてみる。
返ってくる答えは稚拙だったり、ちょっと違うかなというものかもしれないけど、きょうだいにも不登校のお兄ちゃんを時間をかけて「わかろう」とする権利があることを忘れないでほしい。親御さんは先を歩いているから、つい彼らを引っぱりたくなるけれど、その子が自分の力でそこまでたどり着くのを待ってあげてほしいと思います。
③親の抱える感情や思いを分かち合う
きょうだいが「なぜお兄ちゃんは学校に行かないの?」とか「お姉ちゃんは何を考えているんだろう?」「お母さんは、お兄ちゃんのことどう思っているの?」などと聞いてきたとき、とかく親は自分の感情を抑えて、頭や知識だけで冷静にものを言いがちです。
しかし、親がどんな道をたどってここまで来たのか、「はじめはこんな思いだった」「それがこんなふうになって」「今はこんな感じなの」といった親の感情を、きょうだいに伝え、共有することが大切です。子どもの年齢に応じて言葉を選んだり、選択することはある程度必要ですが、できるだけ正直に、ひと言ではいえない複雑な思いや自分でも整理しきれない気持ちも含めて伝えてほしいと思います。
あるお母さんは、不登校になったお兄ちゃんをどのように受けとめたか、その思いを下の妹に話しているなかで、自分が心の奥底では不登校を受け入れていないことに気づかされたと話してくれました。無意識のうちに不登校のことを否定的な感じでしゃべっていることをその妹さんに指摘され、「結局、お母さんは不登校になってほしくないわけでしょ」と言われたそうです。
この妹さんとは私も面接で何度も会っていますが、何年間もひきこもって人に会うのも怖くなってしまったお兄ちゃんについて、とてもユニークなとらえ方をしていました。この子は、お兄ちゃんの今の状態を「進化の過程」と言い、お兄ちゃんは、ある状態から次の状態に移行するための途中のステージにいるんだ、と説明してくれました。
これを聞いて私もなるほどねーと感心したんですが、よく面接のなかで多くの親御さんが「以前のあの子に戻ってほしい」という言い方をされます。その「戻る」という言葉がずっと引っかかっていたんですが、この妹さんの話を聞いてハッとしました。「戻る」のではなく、進化の途中なんですね。
このように、きょうだいと共有するプロセスは、親がその子に何かをしてあげるというのではなく、逆に、親がその子から受けとるものもたくさんあって、まさに双方向の作業といえます。
④きょうだいと親との特別な時間を創り出す
不登校になった子どものきょうだいは、どんな年齢になっても「親と2人だけで何かをしたい」という思いがあります。家にはいつも不登校のお姉ちゃん、お兄ちゃん、あるいは妹や弟がいるために、親を独り占めしたことがないからです。
ですから、お母さんとその子と2人だけで映画に行くとか、2人だけで近くのファリーレストランに行っておしゃべりするとか、たとえ短い時間でも、「お母さんお父さんと自分だけの時間」をつくってあげてほしいと思います。お兄ちゃんだけの親ではなく、自分にとっても親なんだということを実感できる時間を共有することが大切です。
小さな子は、それだけですごく表情が変わったりします。大学生でもそれは同じで、弟さんがずっとひきこもっている大学生に「今、何がほしい?」と聞いたところ、「自分と親との時間かな」と言っていたのが印象に残っています。
⑤きょうだいの選択を受け入れ、彼ら自身の生活を尊重する
きょうだいたちがよく口にするのが、「家に友だちを呼べない」「彼氏にお兄ちゃんのことをどう説明しようか」ということです。つまり、家族に不登校の子がいることで、その子らしい生活がいろいろなところで制限を受けているわけです。さらに、知らないうちにその子自身が自分らしい生活、自分らしい人生を選択することをあきらめるというか、できなくなってしまうという問題があります。学校に行かなくなった子の「身代わり」として、親がきょうだいに過剰に期待を寄せることもプレッシャーになります。
習い事をしたい、友だちと一緒に外出したい、お母さんと2人だけで買い物に行きたいとか、その子がその子らしく生きる権利があり、自分で自分の人生を選択できる権利があるということを、あらためてきょうだいと一緒に共有することが大切です。
そういう共有の体験をされた親御さんから聞いて、いいなと思った言葉があります。そのお母さんは、映画『ハリー・ポッター』(2作目)でタンブルドア校長先生がハリーに言った次のような言葉を、きょうだいと一緒に共有したそうです。
「自分が何者かは能力で決まるのではない。どんな選択をするかじゃ」
たとえば、「誕生日に友だちを呼んでパーティをしたい。お兄ちゃんが人に会いたくないって言っても、どうしても家に友だちを呼びたい」と言ったとき、「どうしてそんなわがままを言うの?」「なぜ、お兄ちゃんに配慮できないの?」と切り捨てるのではなく、その子なりに考えて、それでも友だちを呼びたいという選択をし、それを親に言えるということを、とにかく尊重してあげてほしいと思います。言い出すまで、子どもなりにずいぶん悩み、迷ったはずです。その結果としての彼らの選択を、できるだけ受け入れてあげてください。
不登校を通って一人ひとりが「自分に」なっていく
これまでお話しした5つのことを共有していくなかで、きょうだいだけでなく、不登校をしている本人も、その過程をしっかり見ています。不登校というかたちでSOSのサインを出し、自分を探して奮闘している子どもは、非常に敏感なアンテナをもっていますから、家庭内のさまざまな変化を感じています。その結果、そういう共有の時間をもった後あたりから、その子の見方や感じ方が大きく変わってくることがあります。先ほどのルービックキューブの話ではないですが、ひとつの働きかけがさまざまなことに影響を与えるという、ひとつの例だと思います。
きょうだいへの面接調査で、3分の1の子どもが不登校になったとお話ししましたが、調査から8年ほど経った現在、全員がそれぞれに自分の生きる世界を見つけ、自立への道を歩きはじめています。親とぶつかり合って「お兄ちゃんは進化の過程にいる」と言った妹さんは、やはり数カ月不登校になりましたが、今は大学生になっています。お兄ちゃんのほうも通信制の大学で学びはじめました。このお兄ちゃんの最大のディスカッション相手であり、最高の理解者は妹さんだそうです。
彼らを見ていると、ちゃんとぶつかることのできるきょうだいって素晴らしいなと思います。きょうだいのぶつかり合いは、親とぶつかるのとはまた違った意味があり、きょうだいがしっかりぶつかり合うことは、こんなふうに互いの成長を促すんだなあと感じますし、親もそこから学ぶものがたくさんあるように思います。
この妹さんの言葉どおり、不登校とはまさに「進化の過程」であり、不登校という状態を通って一人ひとりが「自分」になっていくのではないかという気がします。目の前にいる子どもは、本当に一人ひとり全部違う人間です。それぞれの子どもが「自分」になる過程に、親としてどれだけ正直に向き合えるかが大事なのだろうなと思っています。