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登進研バックアップセミナー50・講演内容

再登校すれば解決なのか

菅野純

講師 菅野純(早稲田大学人間科学学術院教授)

不登校の背景にあるもの

     

 「不登校」の背景には、実にさまざまなものが隠れています。表面にあらわれた「学校に行けない/行かない」という状態は同じでも、その背景はまさにケースバイケース。決してひとくくりには語れない部分があるということを、まずお断りしておきたいと思います。

 たとえば、いじめにあったり、学校という集団が自分にとってキツい場合に、一種の「危機回避」として学校を休む場合があります。そもそも学校というのは、思うようにならないことや我慢しなければならないことがたくさんあるわけですから、それに疲れたり苦しくなってくる子どもがいても当然でしょう。

 子どもによっては、学校という「刺激」が強すぎる場合もあります。学校には、さまざまな個性や生い立ちの子どもが集まってきます。先生にいくら怒鳴られても平気な子もいれば、ちょっと注意されただけでショックを受けてしまう子もいます。友だちの輪のなかにどんどん入っていける子がいる一方で、誘われてもなかなか入っていけない子もいます。後者のような子どもにとって、学校は刺激が強すぎて耐えられない、という場合もあるのではないでしょうか。感受性の強い子が、学級崩壊状態のクラスに入ったりすると、学校に行けなくなってしまうこともよくあります。

 学校で「勉強どころじゃない」という気持ちで過ごしている子もいます。僕は、ある本で「学校という戦場」という言葉を使ったことがありますが、子どもによっては家庭の外で生き抜くことが戦場のように厳しく緊張に満ちている場合があります。そのような場で生きていくためには、かなりのエネルギーが必要になりますが、そのエネルギーがあまり補給されないと、それこそ「勉強どころじゃない」「部活どころじゃない」「友だちどころじゃない」といった状態になることもあるのではないかと思います。

 「怠学的不登校」とか「葛藤のない不登校」といわれるタイプもあります。これは、学校に行っていないけど、それほど悩んでいない(ように見える)、ひきこもっているわけでもない、友だちとも普通に遊んだりする、といった比較的新しいタイプの不登校です。このようなタイプの場合、家庭に連絡しても親御さんがあまり真剣に受けとめてくれなかったり、家庭が子どもの教育どころではない状況になっている、といったことがよくいわれます。

挫折感から家庭内暴力に走った青年

 不登校の背景に、発達障害が隠れている場合もあります。
 障害の有無にかかわらず、子どもにはそれぞれ得意・不得意があって、たとえば、同じ英語でも、単語を暗記するのは得意だけど、読解や作文は苦手とか、子どもによって得手・不得手もさまざまです。発達障害の子どもたちは、そういう得意・不得意のギャップが大きかったり、かたよりが目立つという問題だと思うのですが、そうした問題が背景に隠れていて、学校生活をつらくさせている場合もあります。

 最近も、ある青年についてご相談がありました。その青年は、高校で不登校になってサポート校に転入し、なんとか高校を卒業したものの、一浪して大学に入ってからが大変だったようです。大学では、中高と打ち込んできたバスケットボール部に入ったんですが、そこでうまくいかなくなり、大学にも通えなくなってしまったとのことでした。
 その挫折感から、現在、家庭内暴力のような状況になっていて、「なんで俺をこんなふうに生んだんだ!」「お前らが勝手に俺を生んだんだ!」「俺を殺せ」「殺せないんだったら、俺がお前らを殺す」と言って暴れ、ときには、お母さんに直接暴力をふるうこともあるようです。
 こうしたケースでは、まず統合失調症の可能性を考えますが、どうもそうではないらしい。次に浮かぶのは人格障害などですが、それも違うようです。いろいろ聞いているうちに、はたと思い当たることがありました。

 彼は、中学、高校とずっとバスケットボールに打ち込んできました。少しでも時間があると近所の公園に行き、日が暮れてボールが見えなくなるまで練習していたそうです。だから、誰もがバスケが大好きなんだと思っていました。
 ところが、バスケ好きといっても、彼の場合はシュートだけがものすごく好きだったんです。毎日毎日シュートの練習ばかりしていて、それでも高校時代はなんとかなっていましたが、大学となると四軍、五軍レベルの選手ですから自主練中心で誰もコーチをしてくれない。そのうえ体育会系の部活にありがちな、先輩への礼儀作法から始まって、飲み会のつきあいや後輩として下働きもしなければならない。
 彼は、そういう人間関係やチームプレーが実はとても苦手だったんです。試合でも、相手の表情を読む、状況を読む、臨機応変に動くといったことがうまくできない。ボールを入れることに関しては非常に優れた能力がある。ひとつのことに打ち込む集中力も人並み外れたものがある。その一方で、ゲームに必要なチームプレーや部活にともなう人間関係は非常に苦手なんです。

 しかし、誰でも得意・不得意があるわけで、彼の場合もバスケはダメだったけど、弓道ならすごく向いているんじゃないか。相手のいない種目で、ひたすら的に向かって弓をひく。そういうことについての深め方、集中のしかたはものすごいものがある。NBAのビデオをくり返し見て、シュートのフォームを研究したり、イメージトレーニングをしたり、それはそれは熱心でした。
 そこまで夢中になって打ち込んできたのに、実際に大学の部活に入ったら大事なのはむしろ人間関係であり、チームプレーだったわけです。こんなにやってきたのにダメだったという、その挫折感はものすごく大きかったと思います。

学校という社会のなかで生きづらさを感じている子どもたち

 よく話を聞いてみると、子どもの頃から学校が苦手だったそうです。ひとつのことに集中して打ち込むのが好きな彼にとって、学校はつらい場所だったのかもしれません。学校では、なんでも「広く浅く」、そして、ときに「いいかげん」であることを求められます。国語の授業でわからないことがあっても、時間が来たら適当に切り上げて算数の勉強をしなければならない。そういういいかげんさに対応する能力が必要とされます。

 気持ちの切り換えも大変です。みなさんも一度、小学生になって一日学校で過ごしてみるとわかると思いますが、とにかくスケジュールが小刻みです。国語のあとは算数、算数のあとは体操着に着替えて体育、終わったらまた着替えて給食……というように、次々といろんなことをこなしていかなければならない。それを苦もなくやってしまう子、いちいち生真面目に考えないで適当に受け流せる子もいますが、そうでない子、ひとつひとつきちんとやりたい子、いいかげんに流すことができない子にとっては苦労の連続だと思います。

 考えてみれば、今の時代全体がそうですよね。いろんなことに頭を切り替えて対応していかなければいけない。時代とともにどんどん発想を変えて生きていかないといけない。学校はそういう社会の縮図のような部分がありますから、切り換えの苦手な子は生きづらいだろうと思います。ですから、そういう子どもの特性・特質を踏まえて進路を選ぶことが重要になります。

 僕は、現在、大学の教員をやっていたり、これまでもチームワークでいろいろな仕事をやってきましたが、僕自身は部活の経験がほとんどありません。なんでも自分ひとりでやりたいタイプだったので、入部してうまくいかないだろうと思って、ずっと避けてきたんです。つまり、僕は自分が苦手なものにはあまり近づかず、得意なことが発揮できるようなやり方で生きていこうと思ってやってきたわけです。
 ところが、この青年はまるでその逆というか、自分のもっとも不得意な領域にどんどん入っていってしまい、その結果、あんなに苦しむことになってしまいました。

社会で生きていくための「心の土台」をつくる

 学校というものは、将来、子どもたちが社会で生きていくためのトレーニングを積む場として、「小社会的」な状況がセットされています。社会に出る前に、まず学校という小社会で「我慢する」「待つ」「人に合わせる」「妥協する」「嫌なこととつきあう」といった、現実の社会で要求されるスキルを身につける練習をするわけです。
 本来ならば、そのなかで「自分はひとりでコツコツやるのは得意だけど、みんなと一緒に広く浅くいろんなことを適当にやるのは苦手だな」といった自己理解を手助けするような教育がなされればいいのですが、実際は、学校という社会が合わない子どもたちは置き去りにされてしまうことが少なくありません。

 そういう意味で、不登校になった子どもたちは、学校という場で「無理解」にいっぱい出合っていると思います。また、その無理解について「どうしようもない気持ち」もいっぱい味わっているでしょう。そんな子どもたちに対して、われわれ大人は何をすればいいのかというと、次の2つのことが必要なのではないかと思います。

 ひとつは、子ども自身が自分の得意なこと・苦手なことを把握し、自分の生きる道を発見できるように応援し、育てていくことです。今、学校でこれだけいろいろ手厚い教育が行われているのに、子ども自身が自分の力を発揮する機会が少ないように思います。先生がなんでもかんでも指示を出すのではなく、子どもに考えさせる、子どものもっているかすかな力を引き出すように教育していくことが必要ではないでしょうか。
 家庭でも、わが子がどんな力をもっているか、一度、書き出してみるといいと思います。「何もありません」というお母さんがいるかもしれませんが、まず、歩ける、物が見える、アニメを見て感動する力がある、愛犬の面倒をよくみる等々、いろんな力があるはずです。それをまずきちんと評価して、子どもにしっかりフィードバックしていくことが大事だと思います。

 もうひとつ大事なことは、子どもが社会で生きていく強さを身につけるための「心の土台」をつくることです。心の土台がいまひとつの状態だと、仮に高校まではスイスイ進んでも大学でつまずいたり、社会人になってからつまずいたり……。今、そういう人たちがたくさんいます。不登校に限らず、将来、子どもたちが社会で生きていくために、まずはしっかりとした心の土台をつくること、そのためにはどうすればいいかを、これからみなさんと考えていきたいと思います。

 僕が考えている心の土台とは、下の図のようなものです。親なら誰でも、わが子に対して、その子なりに活躍してほしい、もっている力を発揮してほしい、夢を達成してほしいと願うでしょう。同時に、豊かな心に育ってほしい、広い心、やさしい心、温かい心をもってほしいといった情緒面での願いも抱くでしょう。
 そして、これらが子どもの心に根づくためには、しっかりとした心の土台をつくることが必要です。家を建てるときと同じで、しっかりした土台づくりをしておけば、将来この上に大きな家を建てることもできます。しかし、土台があやういと、いざ大きな家を建てようとしてもグラグラと不安定で建てられない、建ててもすぐ崩れてしまうということになりかねません。

再登校すれば解決なのか

     

心の土台①:人間のよさ体験

 心の土台には、図のように1番目の土台、2番目の土台、3番目の土台があります。1番目の土台は「人間のよさ体験」というものですが、これはすべての基礎になるもので、いちばん大事な土台です。
 これはひと言でいうと、「人間っていいものだなあ」と感じる体験のことです。「お母さんっていいなあ。あったかくてやさしくて、おいしいごはんを作ってくれるし、いいなあ」「お父さんっていいなあ。大きくて強くて、守ってくれるし、いいなあ」「おばあちゃんっていいなあ」「先生っていいなあ」「友だちっていいなあ」……そういう体験を積み重ねることで、心の土台がつくられます。

 たとえば、近所の男の子が汗だくになって学校から帰ってきたときに、みなさんが、「おかえり〜、今日も剣道の練習? 暑くて大変ね。よく頑張ってるねー」と声をかけたら、その子がニコッと笑って、「うん、僕、頑張ってるよ!」と答えたとしましょう。するとみなさんは、その子のことを可愛いな、素直な子だなと思ったり、自分まで幸せな気分になったりしませんか。そして、次に会ったときもまた声をかけたくなったりするのではないでしょうか。
 そうすると、この子は「人間っていいな」「やさしいな」「頑張っているとほめてくれるんだな」という体験がどんどん増えていって、1番目の土台「人間のよさ体験」が大きく厚くしっかりしたものになっていきます。

 このように、こちらが働きかけたときに、「可愛いな」「素直だな」と感じるような子は、おそらくそういった「人間のよさ体験」をたくさん積み重ねて育ってきたのではないかと思います。でも、そういう子ばかりではありません。
 たとえば、にわか雨で困っている子に傘を貸してあげようと声をかけても、「なに、このおばさん」みたいな顔で疑わしそうに見上げてくる子がいます。すると、こちらも、「せっかく親切に声をかけてあげたのに、可愛くない子だわ」と思ってしまうのではないでしょうか。そう思ってしまうことは人間の感情としてしかたのないことですが、できればもう少し踏み込んで考えてほしい。

その子には「そうせざるを得ない何か」がある

 実は、「可愛くない」ということは、その子にとってSOSのサインなんです。人間を理解するときの大事な要素は何かというと、その子には「そうせざるを得ない何か」がある、ということです。
 いつも「ただいまーっ!」と元気な声で帰ってくる子が、うなだれて何も言わずに自分の部屋に行ってしまったら、みなさんは「何があったんだろう」と思うでしょう。 「なに、その態度!」といきなり怒ったりしませんよね。このように、「そうせざるを得ない何かがあるのかな」という視点でその子を理解しようとすることがとても大事です。

 可愛くない子は、可愛くふるまえない何かがある。表面にあらわれた行動だけで「なに、この子」「ダメな子」と思ったら、その時点でその子との関係は遠くなってしまいます。この子には、そうせざるを得ない何かがある。では、その「何か」とは何か。

 ところが、この「何か」がわからないことが多いんです。でも、わからなくても、「そうせざるを得ない何かがあるのかな」と思って関わるのと、「なに、この子」と思って関わるのとでは、ニュアンスが大きく違ってきます。
 そして、理解されることの少ない子、誤解されることの多い子、誰もかまってくれない孤独な状況にいる子であればあるほど、そういうことには敏感です。
 「ああ、やっぱりわかってもらえないんだ」「僕はひとりぼっちなんだ」と思うか、「もうちょっと頑張って言えば、わかってもらえるかもしれない」「今度、お母さんに声をかけられたらこう言ってみようかな」と思うか。こちらがどう関わるかによって、そういう違いが出てくるように思います。

 子どもから大人になるとはどういうことかというと、「親もそうせざるを得ない何かがあったんだな」と思えるようになること、それが大人になったということなのではないでしょうか。逆に、大人になっても「なぜ妹ばかりあんなに可愛がったんだろう。私にはすごく厳しかったのに」と親を恨んでいるうちは、まだ子どもなんです。
 「私たちが小さかった頃、父はお金がなくてずいぶん苦労したらしい」「母はどんな子ども時代を過ごしたんだろう」などと思い、そうせざるを得なかった両親の気持ちを考えることができたときに初めて、人間は大人になるのではないかと思います。そして、子ども理解にも同じようなことがいえます。

「人間っていいな」という体験がその子の心の貯金になる

 1番目の土台が作られるときに、子どもがあんまり厳しい状態に置かれると、素直じゃない子、可愛げのない子になったり、人からあまりエネルギーをもらえない子になったりすることがあります。そのもっともわかりやすい例が虐待されて育った子です。そのような状況で、「人間っていいな」なんて思えるわけがありません。
 たとえば、「気の毒だけど、あまり関わりたくない」という人物っていますよね。こちらが親切心から関わろうとすると、被害妄想的に受けとられたり、なんだか嫌〜な気分になったり、「もう勝手にしたら!」という気持ちになったりする場合は、おそらくその相手のなかの1番目の土台の問題が未解決な状態になっていて、それがいろんなかたちで影響しているのだと思います。

 僕たちがそういう状態にある子どもと関わるときは、とにかく「人間のよさ体験」でいっぱいにしてあげるように心がけます。そうすると、人から投げかけられたものがその子の心に根づいていきます。あるいは、道端に咲いている花を見て「きれいだなあ」と感動するとか、そういう気持ちが芽生え根づいて、その子の原動力になっていくことがあります。

 もし、みなさんが「うちの子は、そういうことをあまり体験してこなかったな」「あまり体験させてあげられなかったな」と感じていたとしたら、今からでも決して遅くはありません。いつからでも大丈夫です。僕はよく「1ミリでも、2ミリでも」と言うんですが、まず1ミリでも、2ミリでも、そういう体験を与えてあげてください。そうやって1ミリ2ミリでも、と続けていくと、少しずつその体験がたまっていき、その子の心の貯金になります。

心の土台②:心のエネルギー

 心の土台として次に大事なのは、「心のエネルギー」です。心のエネルギーとは、元気のモト、意欲のモト、やる気のモトということです。
 自分をふり返ってみればわかると思いますが、「やる気を出せ!」と言われたら、やる気が出てくるか。そういうものではないですよね。人間というものは、いくら頭で思っても、体が動かない、行動に移せないということがいっぱいあります。頭に命令を下したら、体がそう動くというのであれば、おそらく教育はいらないし、カウンセラーも必要ない。メッセージマシンだけあればいい。「強くなれ」と言って強くなれるのであれば、誰も苦労しません。もし、みなさんのなかに、頭で思ったとおりなんでもやれるという人がいたら、たぶん病気だと思いますよ。「やる気病」みたいな(笑)。

 では、どうしたら頭で「こうしないといけない」と思ったとき、そのとおりに行動できるか。その原動力にあたるものが「心のエネルギー」だと、僕は考えています。
 たとえば、僕が持っているこのボールペンを「素敵なボールペンだな」「それで字を書いてみたいな」と思った人がいて、「ちょっと貸してくれませんか」と頼んだとします。そのときに僕が放り投げるようにして渡したらどうでしょう。その人は、そのボールペンで字を書いてみる気になるでしょうか。なりませんよね。僕に大事にされていない気がして、悲しい気持ちになる。さらにいえば、僕にエネルギーを吸い取られたような感じがするんじゃないでしょうか。

 反対に、僕がニコッと笑って「ちょっとインクが出にくいんだけど、よかったらどうぞ」と渡したらどうですか?(と、前列の参加者に話を振ると、参加者が「うれしいです」と答える)。
 なんだか誘導したみたいですけど(爆笑)、こういうちょっとした瞬間、物のやりとり、そのときの表情や言葉づかい、そんなところにエネルギーをもらったり、吸い取られたりすることがあると思うのです。

エネルギーを与える言葉、奪う言葉

 子どもが学校から帰ってきて、「お母さん、国語のテスト85点で、クラスで3番だったよ!」と言ったとき、どうするか。テストを見ながら、「よかったね。毎日コツコツ頑張ってたもんね」「このテスト、仙台のおばあちゃんにファックスで送ってあげよう。ごほうびにファックスで千円札が送られてくるかもしれないよ」(爆笑)
 こんなふうに言ったら、子どもは「次も頑張るぞ!」と思うんじゃないでしょうか。

 ところが、「3番だったよ!」と言って、「なんで1番になれないの?」と言われたらエネルギーは湧いてきません。みなさんの日常生活をちょっとふり返ってみてください。悪気はないかもしれませんが、案外こんな言い方をしていることがあるんじゃないでしょうか。こんなふうに言葉のかけ方ひとつで、子どものエネルギーをドーンと吸い取っている場合がよくあります。

 誰かと比較するのもやめたほうがいい。「○○くんはすごいわねえ。あなたも少しは見習ったら」などと口にされたら、子どもはいっぺんにやる気を失います。きょうだいと比べられるのも同じです。誰だって比較されるのは嫌なんです。
 みなさんも「お母さんのカレーライス、日本一おいしいね!」と言われたら、「よし、明日もカレーにしよう!」と思ったりするでしょう(笑)。でも、「すかいらーくのほうがおいしいね」(爆笑)とか言われたら、「二度と作るか!」と思うでしょう。

 「あるクラスで、いつもは手を挙げたりしない子が「はい!」と元気な声で手を挙げ、答えを言ったら間違っていた、ということがありました。そんなとき、先生はどうしたらいいか。「残念だったね。でも頑張って手を上げたのはえらかった。かっこよかった。次はよーく考えて、また手を上げようね」とか言えばよかったんですが、その先生は、思わず、「声ばかりでかくて…」とつぶやいてしまったんです。そういうちょっとした瞬間に人間の意欲が奪われてしまうことがあるんだな、と思います。
 ですから、心のエネルギーを与えること、奪わないようにすることを、日々もっと自覚的に考えてほしいと思っています。

 子ども自身もそうです。今、平気で人を傷つけるようなことを言う子がいますが、本人はそんなにひどいことを言っているつもりはないし、逆に、同じようなことを自分が言われるとひどく傷ついたりする。
 大人も子どもも、自分が投げかけたことが、相手に元気を与えることなのか、逆に元気を奪ってしまうことなのか、そういうことにもっと自覚的になってほしいと思います。

「安心」と「楽しさ」はエネルギーのモト

 こでは、具体的に心のエネルギーはどうしたら湧いてくるのか。僕は、次の3つのことがエネルギーのモトになると思っています。

 ひとつは、「安心できる」ことです。たとえば、お父さんとお母さんがケンカをしていると、子どもはすごく不安になります。学校に行ってもそのことが頭から離れず、元気が出ません。子どもが小さければ小さいほど、不安がわき起こったとき、その不安を鎮めるためにものすごいエネルギーが必要になります。だから、授業中も勉強に集中できなくてボーッとしたり、ソワソワしたりして、先生に叱られたりします。

 不安は、子どもにとって成長の敵です。大人なら、たとえ不安があってもそれを脇に置いておいて、仕事に集中することができます。年を重ねることで、そういう強さを身につけているからです。しかし、子ども、とくに小さい子は不安があったら元気が湧いてきません。だから、安心して過ごすということがとても大事なんです。
 そのためには、まず家族が仲良く過ごすこと。そして、家でリフレッシュできたり、甘えられたり、くつろげること。家にいてまで緊張しなければならないとなると、エネルギーはたまりません。あとは、お父さんお母さんは自分のことをちゃんとわかっていてくれると思えること。ちゃんと見守ってくれていて、いざとなったら自分のことを守ってくれるという確信がもてること。それが安心して過ごせるということだと思います。

 もうひとつ、エネルギーが湧いてくるために必要なのは「楽しい」ということです。誰でも楽しいと感じたときには、心のエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。
 わが子はどんなときに「楽しい」と感じるか。それを考えてみてください。楽しさは人それぞれですから、家族や仲のよい友だちと一緒にいることが楽しい子もいれば、ひとりで過ごす時間を楽しいと感じる子もいるでしょう。好きなアーティストのコンサートで元気をもらったとか、何かに感動したときに楽しいと感じてエネルギーが湧いてくる場合もあります。そして、できればひとりぼっちの感動よりも、誰かとともに感動するほうがいいかなと思います。

「プラスの変身」を子どもにフィードバックする

 「プラスの変身」を体験することも楽しさにつながります。「プラスの変身」というのは僕の造語なんですが、できなかったことができるようになる、わからなかったことがわかるようになる、そういう体験をしたとき、人間は「もっとやりたい」と思うのではないでしょうか。「できなかった自分」から「できる自分」に変身したとき、エネルギーがドーンと湧き出てきます。
 しかし、子どもは「プラスの変身」をしていながら、自分では気づかないことがよくあります。だから、それを大人がフィードバックしてあげることが大切です。「○○ちゃん、この頃こんなふうに変わってきたね」「○○ができるようになったね」「すごいね」「感心しちゃった」と、言葉で伝えてあげる。

 これをくり返していくと、だんだんと子ども自身が、自分で自分の「プラスの変身」をエネルギーに変えていくことができるようになります。
 「中間テストでは英単語の勉強をサボったから60点だったけど、期末テストでは一生懸命やったので80点とれた」「次はもっと頑張ろう」というように、自分の心のなかで「プラスの変身」を言語化し、エネルギーに変えていけるようになるのです。

 「プラスの変身」を子どもにフィードバックすることは、子どもに目立った変化がみられないときこそ重要です。そのとき、お母さんお父さんがどれだけものさしの目盛を小さくできるか。わが子のほんのわずかな変化をどれだけ評価してあげられるか。それが問われているのだと思います。
 学校の先生には、ときどき大きなものさしでしか見られない人がいます。お母さんが、わが子の家庭での変化をいろいろ伝えても、「でも、学校には来られないんですよね」のひと言で終わらせてしまう。学校に登校できるかできないかという、ものすごく大きな目盛でしか子どもを見ていないのです。
 親も似たようなことをやってしまいがちで、「この程度のことで喜んじゃダメよ」などと言っていたら、不登校の子どもは喜ぶ機会なんてなくなってしまいます。

わが子を測るものさしの目盛をどれだけ小さくできるか

 僕は、若い頃に八王子市の教育相談員を14年間やっていました。そのときの体験はとても大きく、たくさんのことを学ばせてもらいました。

 ご相談者のなかに、非常に重い障害をもった子のお母さんがいました。その子は、小学校4年生の年齢だけれど、話すことも歩くこともできません。しかも、心臓に障害をもっているので、歩く練習をするとすぐチアノーゼが起こってしまって危険なんです。だから歩く練習もできない。
 お母さんは、晴れた日はその子をベビーバギーに乗せて、雨の日はおぶって相談に来ます。その子の背丈は、すでに小柄なお母さんと同じくらいになっていましたから、背負うのは大変です。それでも相談日には休まず通ってきました。

 あるとき、そのお母さんが「先生、うちの○○ちゃんはこんなことができるようになったんですよ!」と、僕のほうに手を伸ばしてきました。そして、机の上にあった僕の時計を手に取ったんです。僕は何を言われているのかまったくわかりませんでした。でも、それはお母さんにとっては大発見で、とても楽しい出来事だったんです。つまり、その子が、手を伸ばして物を取ることができるようになったということです。

わが子の小さな成長に気づく喜び

 わが子が生まれたときに何グラムだったかを覚えているお母さんは、かなり多いでしょう。話しはじめや歩きはじめがいつ頃だったかも、だいたい覚えておられることと思います。でも、いつ手を伸ばして物をつかめるようになったかを覚えている人はあまりいないでしょう。なぜなら、こうした発達が起きるときには、他にも言葉をはじめとするいろいろな発達が一斉に起こるからです。だからあまり印象に残らず、気づいたら物をつかむようになっていた、という親が大半ではないかと思います。

 しかし、それがなかなかできない子にとって、物をつかむということは大変なことなんです。最初は何を言われているのかわからなかった僕も、大学で子どもの行動発達の過程について学んだときのことをハッと思い出しました。その発達の基準のひとつに「リーチ」、つまり手を伸ばして物を取るというのがあったんです。そうか! リーチができるようになったんだ、とわかりました。
 リーチができるためにはどういう能力が必要かというと、まず目が見えなければできない。そして、その物に関心がなければできない。物を見て「なんだろう?」と興味を抱く気持ちが発達しなければ、人間は物を取ろうとは思わないのです。また、自分の手を伸ばした範囲のところに、その物があるという空間認識などが発達しないとできない。さらに、手の先の末端神経の発達も必要です。これらの能力がすべて揃って、はじめてこの行動が可能になるわけです。それができた喜び、それをこのお母さんは伝えたかったのでしょう。

 それまで僕は、そのお母さんと子どもに対して何の役にも立てない。それなのになぜ相談に来るんだろうと心苦しく思っていました。でも、今、僕に伝えた喜びを近所の人や友人知人に話しても、たぶんわかってもらえない。だから、その喜びを僕に報告する。僕がその報告を聞く、そして記録する。それだけでも何か価値があるのかもしれないなと思うようになりました。
 そのときのこのお母さんの目盛の細かさがなければ、この子の発達には誰も気づかなかったでしょう。子どもにはときには大きな目盛も必要ですが、それだけでなく、小さな細か〜い目盛で見ることも忘れないでほしいと思います。

その子の「存在」にマルをつけてあげる

 もうひとつ元気の出るものは、「認められる」ということです。「認める」とか「ほめる」ということは、どんな育児書にも載っている大事なことですが、これはときどき誤って伝えられることがあります。
 たとえば、「おだてれば子どもはやるんだ」みたいな感じで言う人がいますが、それは間違いだと思います。ただおだてられ操作されてやらせられただけなら、子どもは成長するなかでちゃんとそのことに気づくでしょう。

 そうではなく、「認める」「ほめる」ということは、その子の心のなかにマルをつけてあげる、その子の存在にマルをつけてあげるということなんです。

 存在とは、英語で「being」。これに対して、「doing」という言葉もあります。「doing」、つまり、その子がしたことにマルをつけるというのはよくあることです。100点をとったからマル、オリンピックでメダルをとったからマル、そういうことはいっぱいあります。でも、もうひとつ大事なのは「being」、ただ存在しているという、そのことだけでマルをつけるということです。ここがときどき日本の教育から忘れ去られているなと感じることがあります。何をしてもしなくても、その子にマルをつけてあげる、その子がいるだけでマルをつけるということが大事なんですね。
 教育の場では、どうしてもdoing、doing、doingで行ってしまうことが多くて、しかたのない部分もあるんですが、家庭ではbeingを大事にしてほしいなと思います。
 もちろん、その子が何かで頑張ったり、いいことをしたときにはdoingでマルをつけていいんです。beingでもdoingでも、いっぱいマルがつくと、人間というのは「自己信頼感」、自分を信じる気持ちが湧いてきます。「自信」といってもいいでしょう。

 ときどき、力はあるのにやる気がない子がいますが、おそらくその子は知的な能力はいっぱいもっていても、どこか心のなかにバッテンがついているのかなと思うことがあります。心にバッテンがついていると、何をやっても「どうせ僕なんか…」というふうになってしまいます。お母さんお父さんが一所懸命マルをつけてあげたいと思っても、外でバッテンをもらってくることもあります。そんなときは、お母さんお父さんがたくさんマルをつけてあげることで、バッテンを相対的に少なくしていくことが大切です。

 みなさん自身、今の自分を支えているものはなんだと思いますか。「我慢強い自分」「コツコツ努力する自分」「料理上手な自分」「絵が上手な自分」……そういう自分に自信がある、そういう自分が好きだというものが何かあるでしょう。それは、かつてどこかで誰かにほめられたり、認められたりしたことではないでしょうか。そういうものが背中を支えるわけです。
 今、子どもにマルをつけるということは、たとえ直接的なつながりがなくなっても、みなさんがこの世からいなくなっても、子どもの心の背中を支えつづけるでしょう。だからこそ、ひとつでもふたつでもマルをつけてあげてほしいと思います。

心の土台③:社会的能力

 もうひとつ大事なのが、3番目の土台「社会的能力」です。これは、1番目と2番目の土台があってはじめて根づくものであり、3番目の能力だけを育てようとしてもうまくいきません。
 社会的能力は、現代ではほうっておいたら身につきません。昔は、地域の人に教えられたりして身についていくものでしたが、今はそういう環境もほとんどありません。だから、周囲の大人からの働きかけや教えが必要になります。
 社会的能力として、僕は次の6つを挙げたいと思います。

社会的能力とは

 ①自己表現力(自分の考えを上手に伝える力)
 ②自己コントロール力(我慢する力、待つ力、コツコツ努力する力など)
 ③状況判断力(状況を判断する力、これをやればどういう結果になるのかを読む力)
 ④問題解決力(問題を自分なりに解決する力)
 ⑤親和的能力(人と親しく交わる力、ケンカする必要のないときにケンカをしない力)
 ⑥思いやり(相手の気持ちや立場に立って考える力)

 

 たとえば、①の「自己表現力」ですが、社会で生きていくためには、ただ自己を主張するだけではダメ。相手の考えを受け入れながら、自分の考えも伝え、互いに折り合いをつける。そのバランスがとても大切です。同じことを言うのでも、相手がカチンと来るような言い方を身につけていて、本人に悪気はないという場合には、もっとスムーズに気持ちが伝わるような言い方を教えていくことが必要ではないでしょうか。

 僕が関わった事例で、こんな話があります。
 発達障害をもつ小2の男の子が、友だちを誕生日会に誘ったときのことです。それは、その子のお母さんが友だちのいないわが子を見て、友だちを誕生日会に招こうと思ったからです。ところが、誘った友だちのひとりが断ってきた。「お誕生日会に来てね」と言ったら、相手が「やだよ」と答えた。その子はもうどうしていいかわからなくなって怒りだけが出てきて、その友だちをドーンとどついてしまったんです。ふいを突かれたその友だちは、コンクリートの三和土に後頭部を打ちつけてしまい、ちょっとした騒ぎになってしまいました。

 そのときに、相手が「やだよ」ではなく、もっと違った言い方をしていたらどうだったでしょう。同じ「NO」を言うにしても、いろんな言い方があります。「ごめんね。僕、その日は塾があって行けないんだけど、○○くん、お誕生日おめでとう」。これもNOの言い方のひとつです。NOと言うからといって、相手を怒らせる必要も、神経を逆撫でする必要もないわけです。そういうちょっとした言い方を、子どもたちに教えていくことが大事です。

 ただ、子どもは教えたからといって、すぐに言うとおりにはしません。でも、「教えてもダメだから教えない」ではなく、それでも教えておいたほうがいいんです。なぜなら、子どもはいざ困ったときに、「そういえばお母さんが、なんか言ってたな」と思い出すわけです。困ったときに、そういう教えがあるのとないのとでは全然違う。社会的能力は本能ではないので、ほうっておいても自然に育つというものではありません。だから、周囲の大人が教えていく必要があるのです。

怒って教えても身につかない

 ②の「自己コントロール力」とは、たとえば、「我慢する」「待つ」「コツコツやる」といった能力のことです。うちの子はこのあたりの能力がいまひとつだな、と思っているお母さんお父さんも多いのではないでしょうか。

 自己コントロール力というのは、怒って教えても身につきません。「我慢しなきゃダメでしょ!」と、いくら叱っても身につかない。なぜなら、心理学的にいって人間は嫌なことは忘れるようにできているからです。怒って教えるやり方だと、「叱られた」という嫌な思い出と「我慢しなさい」というメッセージがセットで与えられるから、嫌な思い出と一緒に「我慢しなさい」という教えも頭のなかから出ていってしまうんです。

 だから、何かを教えるときは、ほめ言葉と一緒に投げかけていくことが大切です。
 ちょっとでも我慢できたときには、「よく我慢できたねー」「えらいねー」とほめてあげてください。今、子ども相手のような言い方をしましたが、大人だって同じです。「ずいぶん工夫されたんですね」と言われたら、「よし、もっと工夫しよう」と思って、「工夫する自分」になっていく。あるいは、「きめ細かい配慮ですね」と言われたら、「きめ細かく配慮する自分」というものが強まっていく。そういうほめ言葉に乗せて、メッセージを与えることが大事です。

 ③以下の説明は省略しますが、これらの社会的能力には2つの注意点があります。ひとつは、1番目の土台「人間のよさ体験」と2番目の土台「心のエネルギー」がぐらついていたら、社会的能力は根づきにくいということ。優先順位は、まず1番目と2番目の土台であって、愛情や意欲がスカスカの状態では、自己表現とか自己コントロールどころの話じゃないわけです。

 もうひとつは、一生の課題だということ。だから、今すぐ身につけなくてもかまわない。それに、10代なら10代なりの、20代なら20代なりの、50代なら50代なりの必要とされる社会的能力があるわけで、たとえば僕が50代になって初めて必要とされた社会的能力のひとつが親の葬式のしかたでした。このように社会的能力というものは、一生のテーマです。ただし、ほうっておいたら身につかない。年をとったら自然に葬式のしかたがわかるようになる、なんてわけはありません。だから、親をはじめとする周囲の大人たちがいろんなかたちで教えていくことが大事なのです。

どれだけプラスの部分に着目して子どもを見ることができるか

 最後に、ひとつお話しして終わりにしたいと思います。
 みなさんに、何かつらいことやうまくいかないことがあったとします。そのとき、うまくいかない部分を黒色だとすると、そうではない部分、白い部分も、少しかもしれないけどあるはずなんです。うまくいかないときに黒い部分を減らそうとしても、なかなか減らない場合があります。先ほどお話しした重い障害のあるお子さんの場合などがそうです。障害そのものは、いくら頑張ってもなくなりません。だけど、障害のない部分もある。

 われわれも同様で、何か悩みがあって、それがすぐには解決しない場合がいっぱいあります。だけど、白い部分を増やすことはできる。白い部分をいっぱい増やしていくと、最初は黒色が3分の2くらいを占めていたのが、だんだん割合が減っていき、最後には50分の1くらいになっちゃった、ということもあるわけです。黒い部分は実際には減ってないけれど、相対的に小さくなっていくということです。

 これは僕が長年、子どもたちの相談に関わってきたなかでの実感です。小さい頃は、これこれこういうところが悩みのタネで問題だらけで、真っ黒な部分ばかりだった。ところが、成長して体も大きくなり、行動力も出てきて、運転免許も取って、いろいろな経験を積んで……というように白い部分がどんどん増えていくことによって、悩みのタネだった黒い部分はまだあるけれど、たいした問題ではなくなってくる。要は、白い部分をどれだけたくさん発見するか、だと思います。

 僕はポイントカードが大好きで、スーパーやデパートのポイントカードをいっぱい持っているんですが、白い部分を発見することは、ポイントが貯まっていく感じに似ているような気がします。
 何かあったら、そのたびにわが子にポイントをつけてあげる。ひきこもりぎみでめったに外出しない子がひとりで買い物に行けた、学校のパンフレットを自分で取り寄せた、友だちに電話をして楽しそうに話をしていた、友だちと一緒にコンサートに行けた……そういうものを全部ポイントとしてつけていく。つまり、どれだけ子どもの白い部分、プラスの部分に着目して子どもを見ることができるか、ということだと思います。

 親は、子どもを心配するあまり、黒い部分にしか目が行かないことがよくあるんですが、本来、子どもというものは白い部分をいっぱいもっているんです。これまで見過ごしていた部分も絶対あるはずです。そのひとつひとつにポイントをつけて、もっとふくらませてあげると、悩んでいたことが相対的に小さくなって、乗り越えやすくなるのではないかと思います。
 ご清聴ありがとうございました。(拍手)

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