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登進研バックアップセミナー73・講演内容

不登校―親として受けとめられなくなったとき


不登校―親として受けとめられなくなったとき
講師 今村泰洋 (東京教育相談センター主任教育相談員)

 本日のテーマ「親として受けとめられなくなったとき」について、どんな話をしようかと考えていたとき、「私」というキーワードが思い浮かびました。一人称の「私」、みなさん一人ひとりにとっての「私」です。
 「親として受けとめられなくなったとき」の親とは、結局のところ、ひとりの人間としての「私」ではないでしょうか。そこで、この「私」をキーワードにして話をしてみたいと思います。


人はライフステージ、立場、場面によって呼び名が変わる

  今、みなさんはなんと呼ばれていますか? 家庭では「お父さん」「お母さん」「パパ」「ママ」、会社では「〇〇さん」と呼ばれている人が多いのではないでしょうか。

 人は、ライフステージや時間の経過とともに呼び名が変わります。私は「今村泰洋」という名前ですが、子どもの頃、友だちからは「やっちゃん」、親からは「泰洋」と下の名前で呼ばれることが多かったように思います。大人になってから、独身時代は「今村」と呼び捨にされ、やがて彼女ができると、彼女から「泰洋さん」と「さん」づけで呼ばれたりしましたが、その後、結婚すると「あなた」に変化しました。
 ところが、子どもが生まれたとたん、カミさんから「パパ」と呼ばれるようになり、私もカミさんを「ママ」と呼ぶようになります。その頃から、「今村泰洋」ではなく、子どもを主体とした呼び名に変わってきます。

 子どもが小学生の頃は「〇〇ちゃんママ」「〇〇パパ」、子どもが成人し、結婚して孫ができると「おじいちゃん」「おばあちゃん」、その後、再び「あなた」「おまえ」という世界に戻っていく……というように、私たちはひとりの人間であるにもかかわらず、時間とともに呼び名が変わっていくことがわかります。
 立場や場面によっても、呼び名は変わります。私の場合、会社では「今村さん」「今村先生」「今村主任」が多く、家庭ではもっぱら「父さん」、友だちとの飲み会などでは「今村」、兄弟や親戚からは「やっちゃん」と呼ばれています。

 このように呼ばれ方ひとつとっても、人間はさまざまな側面をもっています。これを心理学では「ペルソナ(仮面)」といいます。本当の自分を偽って仮面をかぶっているという意味ではなく、ひとりの人間にもいろいろな面があるという意味です。

親に与えられる4つの試練

 親の務めとして「子育て」という仕事があります。かつて「親業」という言葉が流行ったことがありますが、その背景には、夫が社会に出て仕事をしているのと同じように、妻も家で子育てという重要な仕事をしているのだという考え方が、一般に広く受け入れられるようになったことがあるのではないかと思います。

 子どもが生まれると誰もが親になるわけですが、親になると子どもの成長を見るのが楽しみという喜びがある一方で、次のようなさまざまな試練を与えられることになります。

【試練1】自由がきかなくなる
 最初に訪れる試練は、自由がきかなくなることでしょう。それまで友だちと会ったり、外出していた時間が確保できなくなり、朝起きて夜寝るまで子どもに合わせた時間が流れるようになります。
 空間も制限されます。たまには洒落たレストランで食事をしたいと思っても、子ども連れでは無理と思ってあきらめたりします。
 関係も変わってきます。あくまで親としての立場が前面に出てきますので、私個人というより、親としての関係が多くなってきます。それは子どもが小学校高学年あたりまで続きます。

【試練2】自分がなくなる
 第2の試練は、自分がなくなるということです。「〇〇ちゃんママ」「〇〇パパ」と呼ばれることが多くなるにつれ、子どもにいろいろなことをやらせてあげようと、親が我慢して子どもに合わせることが多くなってきます。
 同時に、とくにお母さんたちは、子どもが喜ぶと一緒に喜んだり、子どもが悲しむと一緒に悲しんだりというように、親子の一体感を味わうようになります。無意識のうちに自分を犠牲にして、子どもに合わせることによって一体感をもつようになるのです。

【試練3】子どもは自分とは別の人間であることを受け入れなくてはならない
 子どもが思春期に近づくと、親の言うことは聞かないし、何を考えているのかもわからず、質問しても「うぜぇーよ」しか返ってこない。これまでこんなに自己犠牲を払ってやってきたにもかかわらず、まったく親の言うことに耳を貸さない状態になります。
 このときの親の試練とは、子どもも人格をもったひとりの人間であることを突きつけられ、それを受け入れなくてはならないということです。子どもとの一体感が深ければ深いほど、それを受け入れるのはつらいことかもしれません。

【試練4】子どもとの別れを受け入れなくてはならない
 思春期になると、子どもは行動範囲をどんどん広げて、必然的に親から離れていきます。その結果、子どもとの別れが訪れ、それを受け入れなくてはならなくなります。
 心理学的にいうと、これまでの「母子密着」という状態から、「精神的分離固体化」といって、子どもが精神的に自立しなければならない時期になります。この思春期を通り過ぎると子どもは独立し、そこで別れを体験することになります。なお、母子密着というとマイナスイメージが強いようですが、子どもが幼いうちはどうしても必要なことです。それによって子どもは基本的な信頼感や、自分はこの世に存在していいんだという思いを実感するのです。
 精神的に自立するのは、子どものなかに自分という個性が出てくるときで、自己主張をしはじめます。ところが、自分の気持ちをうまく話せない、どう伝えたらいいかわからないとなると、「行動化」ということを始めるわけです。

思春期の不登校がもたらす不安、自責の念、自信喪失

  不登校は、そうした自分というものの現れ、行動化と考えることができます。  思春期に入った子どもたちは、本当はこんなふうにしたかったけど思うようにいかないとか、今までは両親の言われたとおりにしていればうまくいったけど、これまでのようにうまくいかなくなってきたと感じることが多くなってきます。小さいときのように親に言われたまま行動するわけにはいかないという感覚も生まれてきます。自分はロボットではないし、これまでと同じようにはしていられないと思い始めます。

  このような子どもが不登校になったとき、彼らの心のなかには「自分はこれからどうなるんだろう?」「どうしたらいいんだろう?」という不安が生まれてきます。そもそも思春期の子どもの心のなかは葛藤だらけです。親とケンカはしたくないけど、親にいろいろ言われるのは嫌だ。学校に行ったほうが友だちもいるし、修学旅行にも一緒に行けるし、同じ高校にも進学できるかもしれないけど、学校に行こうと思うと怖い。

 こうしたジレンマを抱えながら、「この先どうなるんだろう」という不安を抱え、やがて、「こうなったのは自分が悪いんだ」と自責の念を抱くようになり、「自分なんかいないほうがいい」と思ったりもします。あるいは、担任の先生の「いつでもクラスのみんなが待っているから安心して出ておいで」という言葉を信じて登校したら、授業についていけず、つらい思いをしたとき、「大人なんか信用できない。口では優しいことを言うけど、本当に自分のことを心配してくれてるの?」と猜疑心の固まりのようになってしまいます。こうなると自信はどんどん失われていきます。
 不登校によって自分に突きつけられている「いかに生きるべきか」というテーマも簡単に答えが出ないことはわかっているし、思い切って行動すればふんぎりがつくだろうと頭ではわかっていても、体が動かないという子どもは少なくありません。

 親やまわりの人の言うことはわかるけど、言いなりにはなりたくないという思いも強くて、「メンタルフレンドのお兄さんに来てもらって、散歩や買い物に連れて行ってもらえば気分転換になるかもしれないよ」という親御さんの提案にも、「人の力は借りたくないから必要ない」と言い返したりします。他人の言うとおりに動くことは、自分が自分でなくなっていくような感じがあるのでしょう。

 不登校の子どもは、親やまわりの人の言うことを聞いていないようなふりをしながら、実はぜんぶ耳に入っています。だから、同じことを何度も言われるのは責められているようでつらいので、「うぜぇーよ、ほっといてよ」となるわけです。親と顔を合わせないようにして、同じことを言われるのを回避しようとする子どももいます。「いつになったら学校に行くの?」と言われたとき、それに向き合えない、正対できない自分がいることがわかっているから、避けようとするのです。

親はずっと我慢しなければいけないのか

 こんなふうに、子どもは親がよかれと思って声かけすることに対して、「うざい、やめてくれ」と言うわけですが、親はそれを受け入れることができるようになるまで、ずっと我慢しなければいけないのでしょうか。不登校のわが子が元気になるまで、我慢に我慢を重ねていかなければいけないのでしょうか。

 子どもが小さくて必死に育児をしているようなときは、たいていのことなら試練を試練とも思わずに我慢していられるでしょう。ところが、今、我慢できないということは、どこかにおさまりのつかない「私」という自分が出てきているからではないでしょうか。言いかえると、「自分で自分の気持ちをもてあましている」ということになります。

 このことは親も子も同じような気がします。つまり、不登校の子どものほうも自分の気持ちをもてあましている。そんな子どもを見て、親も「どうしたものか」と自分の気持ちをもてあましているわけです。

 ただ、子どもは自分の気持ちをもてあまして好き勝手にやっても、ある程度は許されるわけで、それは子どもが成熟していないからでしょうか。では、親が同じことをやったら許されないのか。それはなぜか。大人は成熟しているからでしょうか。

 人は子どもが生まれれば親になりますが、親としてすぐ成熟するわけではありません。よく言われるのは、子どもが1歳とすると、お母さんお父さんの親としての年齢も1歳だということです。子どもとすったもんだしながら、時間をかけて親として成長していくわけです。

子どもにとって壁になるために、親は爆発してもいい

 親が自分の気持ちをもてあましたとき、爆発しそうな気持ちをどうすればいいか。結論からいえば、爆発してもかまわないんです。ただし、「暴発」は困る。「暴発」とは、するつもりのないときに爆発してしまうことであり、対して「爆発」とは、たまりにたまったものが心のなかから出てくることです。

 「爆発」は、子どもだけでなく、親にとっても必要なことです。なぜなら、親にも感情があるからであり、さらに、親は子どもにとって壁にならないといけないからです。なんでも「いいよ」と許していると、次に動き出そうとするときに、子どもは何を我慢したらいいのか、その目安とかハードルがわからなくなってしまうからです。

 ある親御さんは、学校にも行かない、バイトに行くわけでもない、何もしない子どもへのおこづかいをストップしました。これに対して、子どもは「相談センターまで行く交通費がほしい」「暑いから途中で冷たいものを買ったり、マックで食べるお金もほしい」とあれこれ理由を言って、ある程度のおこづかいをもらって出かけていました。ところがある日、相談をドタキャンして、ゲームセンターで遊んでいたことが判明したのです。それを知ったとき、親御さんはどう対応すべきでしょうか。
ウソをついて遊んでいたことにふれないほうがいいのか。それとも、どうして相談に行かなかったのか聞いたほうがいいのか。問い詰めると、それまで平和だった親子関係が崩れたり、波立つかもしれないという心配もあるでしょう。

 そのとき、私は率直に理由を聞いてみたらとアドバイスしました。なぜなら、そのお子さんは、やってはいけないことをやったとわかっているのです。それを親御さんが見逃すと、「相談をサボッたことは、どうでもいいことなんだ」と思ってしまいます。

 物事には、見逃していいことと悪いことがありますが、見逃していけないことについては、子どもとしっかり向き合わないといけない。その流れで、「いいかげんにして!」とか「好き勝手なことばかりして!」と思うことがあれば、爆発してもいい。

 ある子どもが教えてくれたことがあります。「自分でもやってはいけないとわかっていることをやっているときに、親が見て見ぬふりをしていると、俺は必要ないんだろうなと思えて、家族のなかでいてもいなくてもいい存在になっていくのが不安だった」と。

 子どもは子どもなりに、どうしたらいいかわからずにあがいているので、あちこちにぶつかります。ぶつかっていることも、ぶつけられた人が嫌な思いをしていることもわかっています。ある程度までは、親が我慢してくれていることもわかっているのです。

 ところが、本当に我慢してくれているのか、自分の存在なんかどうでもいいと思っているのかわからなくて不安になってくると、親の気持ちを試すために行動がエスカレートしてくることがあります。そのとき、親は「それ以上はダメ」ということを教えるためにも爆発したりして、子どもにとって壁になることが必要です。親は、子どもの召し使いでも執事でもありません。

上手に爆発するための3つの条件

 これまでお話ししてきたように、ときには親も爆発してかまわないのですが、これには3つの条件があります。

①爆発したあとは、できるだけ早く冷静さを取り戻す
 爆発するときは、それまでいろいろな不満があって我慢に我慢を重ねてきているわけですから、最初のひと言が出てしまうと、芋づる式に余計なことまで言ってしまいがちです。それはある程度仕方のないことですが、爆発したあとはできるだけ早く冷静さを取り戻し、不満やイライラを引きずらないようにしましょう。
 爆発したあともイライラやモヤモヤを引きずったり、爆発したことでさらにイライラがつのるようでは、爆発した意味がありません。心にたまったものを思い切り吐き出したら、「あー、スッキリした。また頑張ろう」と頭を切り替えることが大切です。

②連続して爆発しない、爆発した自分を責めない
 連続して爆発すると、家庭崩壊につながらないともかぎりません。
 また、爆発したあとに、「こんなに苦しんでいるわが子に自分の不満やイライラをぶつけてしまった。なんてダメな親なんだろう」と自分を責める必要はありません。自責の念にかられて落ち込んでいる親の姿を見れば、子どものほうも「自分はなんてひどい子どもなんだろう。親をこんなに追いつめてしまって」と、ますます自分を責めることになりかねません。親だって感情をもったひとりの人間です。こらえ切れなくなって爆発することがあっても、自分を責める必要はないし、爆発して当然のことだと思います。

③爆発したあとに、それを誰かに話せる場を確保しておく
 すべてを自分ひとりで抱えこまず、相談したり、グチや泣き言を聞いてもらえる場や相手をもつことが大切です。ひとりで我慢して、ひとりで爆発して、ひとりで爆発の手当をやっていたら、親はつぶれてしまいます。
 子どもにとって、親がつぶれることほど困ることはありません。この先、自分が動き出そうというときに、いちばん近くにいて助けてくれるはずだった親がつぶれてしまったら、ぜんぶ自分でやらないといけなくなります。お母さんお父さんが元気でいてほしいというのは、子どもたちの切なる願いなのです。

親も生身の人間であり、成長過程にある

  相談機関を利用するようになったお母さんお父さんは、だんだん顔つきが変わっていくといわれます。それは、「私」を受けとめてくれる場所を見つけたからだと思います。

 忘れないでほしいのは、親も「私」という、ひとりの個としての人間であるということです。子どもに向き合っているときも、ご夫婦で話しているときも「私」です。
 子どもに向き合っているときに、親の仕事として向き合っている人はいないでしょう。朝食を作るのは私の仕事だから、お弁当を作るのも仕事だから、洗濯をしてあげるのも仕事だから、「今日も学校を休みます」と学校に連絡するのも仕事だから……と思ってやっている親はいません。親の仕事としてやっているのではなく、不登校の子どものためにいろいろとやってあげようとするのは、親としての「私」がそうしたいからです。人から言われてやっているのではなく、「私」が自分から動いている、「私」がわが子に向き合っているのだと思います。

 親もときにはキレていい、爆発してもいいと言いました。ただし、たまりにたまった感情を子どもに思い切りぶつけたときには、子どもの表情や態度に注意してください。お子さんが言い返したりすれば問題ありませんが、お子さんが何も言わずにシュンとなったときは要注意です。「こんな自分はダメだ」と自分でもわかっているところに追い討ちをかけてしまったことになるからです。そんなときは、「言いすぎちゃった。ゴメン」とひと言、謝ってあげてください。それで十分です。そんなひと言が言えるゆとり、余裕、気持ちの安定感を取り戻すためにも、ときには爆発するのがいいと思います。

 子どもが成長過程にあるのと同時に、親としての「私」も成長過程にあります。おなかの底から笑えるときもあれば、愛おしくてたまらないときもあり、子どものことが心配で眠れないこともあるでしょう。そして、自分のやっていることと、子どもがやっていることがかみ合わなくて、悔しくて泣きたくなるときもあれば、怒り心頭に発することもあるのです。

 それはすべて、「私」というひとりの人間が感じていることであり、そうしたプロセスのなかで成長していくわけです。くり返しになりますが、親も生身の人間であり、完全な存在ではなく、成長過程にあることを自覚しながら、爆発したからといって、ご自身を責めることはしないでほしいと思います。

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