第26回 第34回 第39回 第40回
第44回 第53回 第54回
第55回(第1部)
第55回(第2部)
第57回 第58回 第59回 第61回
第62回 第63回(第1部) 第63回(第2部)
2023年度 2022年度 2021年度 2020年度 2019年度 2018年度 2017年度 2016年度 2015年度 2014年度 2013年度 2012年度 2011年度 2010年度 2009年度 2008年度 2007年度 2006年度 2005年度 2004年度 2003年度 2002年度 2001年度 2000年度 1999年度 1998年度 1997年度 1996年度 1995年度 2019年度 2018年度 2017年度 2016年度 2015年度 2014年度 2013年度 2012年度 2011年度 2010年度 2009年度 2008年度 2007年度 2006年度 2005年度 2004年度 2003年度 2002年度 2001年度 2000年度 1999年度 1998年度 1997年度 1996年度 1995年度
登進研バックアップセミナー82・講演内容
さよなら不登校partⅡ~支えてくれた人がいたから、今がある
*2012年6月17日開催の登進研バックアップセミナー82で行われた「不登校体験者と直接話せる、質問できるセミナー『さよなら不登校partⅡ〜支えてくれた人がいたから、今がある』」の内容をまとめました。
*「不登校体験者と直接話せる、質問できるセミナー」では、参加者の方々が10〜20人のグループに分かれて一人のゲスト(体験者)を囲み、自由にお話ができるようにしました。1グループに1人のカウンセラーが世話役として加わり、お話の整理をしています。以下の抄録で「Q」とあるのは、参加者の方々から体験者に向けての質問です。
*ゲストのお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。
ゲスト | 小川 哲哉(社会人、25歳) |
世話役 | 池亀良一(代々木カウンセリングセンター所長) |
小川哲哉さんのプロフィール
●不登校の期間:中1の5月から中3の終わりまで。
●不登校のきっかけ:中1の最初の中間試験のプレッシャーが大きかった。他人と学力を比べられ、数字でランキングされるのは小学校では経験しなかったことであり、親にも期待されていた。中間試験前の勉強が嫌で嫌で、ノイローゼぎみになったことがきっかけになった。
●不登校になった当初の気持ち:とにかく学校に行きたくないという気持ちが強かった。まだ13歳で幼かったから、どうして行きたくないのかについて深く考えることはなかった。
●そのときの親の対応:家族では、母だけが誠実に受けとめてくれ、「学校に行け」「〇〇しなさい」とは一切言わなかった。父はいろいろとうるさかったが、母の対応に救われたし、ありがたかった。何も言われなかったからこそ、普通に生活ができた。小児病院に週1ペースで母親と一緒に通い、カウンセリングを受けていたが、カウンセラーをあまり信用していなかったので、ただ外出するイメージだった。
●不登校中の生活:生活リズムはそれほど乱れていなかった。朝、普通に起きて、食事も家族と一緒にとり、夜10〜11時頃には寝る。起きている時間のほとんどはゲームをしていた。中3のときは、教育センターにある適応指導教室に通って勉強まがいのことをやっていた。密につき合える友人は少なくなったが、ときどき学校のプリントを届けてくれる幼友だちは学校に行っていないことを特別視しないで普通につき合ってくれたので、救われた面がある。
「おまえの人生は終わりだ」と言われたショック
Q | 中3のときに、市の教育センターにある適応指導教室に通っていたそうですが、そこに通うようになったきっかけはなんですか? |
小川 | 不登校中、母と一緒に小児病院に週1回通院し、心療内科でカウンセリングを受けていたのですが、そこのカウンセラーに紹介されたのがきっかけでした。 |
Q | うちの子も、週2回、教育センターのカウンセリングに通えるようになり、この調子で適応指導教室に行けるようになるまで静かに見守ってあげましょうと言われています。ただ、動き出す気配はまったくないし、勉強も全然していないので、親としては焦っているのですが、どう思われますか? |
小川 | 私も同じ立場なら、まったく勉強はしないで、ゲームばかりやっているような気がします。中2の頃は、まさにそんな感じでした。母からも、勉強しなさいというプレッシャーは一切ありませんでした。 |
池亀 | 小川くんの場合は、そろそろ動き出さなきゃと思いはじめた頃に、いいタイミングでカウンセラーから提案が出されたような気がします。 |
小川 | そのとおりだと思います。私の場合、母からはプレッシャーになることはあまり言われなかったのですが、父からは細々としたことを言われて、それがものすごくプレッシャーになっていました。それを平然と受けとめるほど強い自分は確立されていなかったので、言われれば言われるほど自分がつぶれてしまう感じでした。 |
Q | 小川さんは冷静かつ客観的に物事をとらえて、その場その場を淡々とやりすごしてきたように見えるのですが、親子関係で修羅場のような出来事はなかったのですか? |
小川 | いちばんの修羅場は中1のときに、布団をかぶって「行きたくない」と言ったら、父から「おまえの人生は終わりだ」と言われたことです。あれはショックでした。 |
Q | そういうときに何も言い返さないとストレスがたまると思うんですが、ストレス発散で暴れたりしなかったんですか? |
小川 | 中1の頃は、ストレスのはけ口自体よくわからなかったこともあると思いますが、モノに当たるということはありませんでした。母が何も言わなくなってからは、一人で遠出をしたりして、自分の中にためこんだものを消化していたこともあります。 |
夜中に泣きながら話し合う両親を見て…
Q | ご両親、とくにお父さんから責められてつらかったと言っておられましたが、心を閉ざした結果、ご両親と心の接点を失ってしまった時期はありますか? |
小川 | 父と話しにくい雰囲気になっていたことはありますが、母は、私が学校に行かなくてもまったく普段どおりに接してくれて、ときには料理も教えてもらったりして、うまくコミュニケーションがとれていたので、家族との間に壁をつくったことはありません。 |
Q | 担任の先生や相談室の先生とコンタクトはとらなかったのですか? |
小川 | 中1のときの担任の先生は心配して、たまに自宅まで来てくれたりしました。私も訪問をむげに断ることはなく、軽くあいさつをして、「まだ、ちょっと登校するのはつらいです」と伝えたりして、担任とのコミュニケーションはゼロではありませんでした。 |
Q | 不登校中、学校の行事などには顔を出すこともあったそうですが、その際、友だちやクラスメートと顔を合わせることに抵抗はありませんでしたか? |
小川 | ほかのクラスメートが必死に学校で勉強しているのに、私だけだらしのない生活をしているわけですから、楽しい行事のときだけ出席することに反発されたことはあります。なかには、「おまえ、なんでこういうときだけ出てくんだよ」と言ってくる人もいましたが、馬耳東風ではないけれど、そうした声は聞き流すようにして、仲のよい友だち2〜3人とふれあうようにしていました。 |
Q | 「このままではいけない」と思ったのはいつ頃ですか? また、なぜ動き出せるようになったのか教えてください。 |
小川 | このままではいけないと思ったのは中3のときです。ある夜、トイレに起きたら居間に明かりがついていたので行ってみると、両親と祖母の3人が私のことで相談をしていたんです。両親は泣いていました。それを見て、「ああ、いろいろ迷惑をかけてきたんだな」「このままじゃいけないんだな」と痛切に感じて……。それが動き出そうと思いはじめたきっかけというか、大きなターニングポイントだったと思います。 |
Q | その頃はご家族からの登校刺激はなくなっていたんですか?? |
小川 | その“家族会議”を見た直後くらいに、母から不登校の生徒が進学しやすい学校の情報を教えてもらったりしたので、あの家族会議はグッドタイミングだったのかなと思ったりしています。だた、自分のなかでも「そろそろなんとかしないといけない」という思いは起こっていたので、あの会議が引き金にはなりましたが、いずれは別の要因で動き出すことになったのかもしれません。 |
背中を押してくれた母という味方
Q | 子どもにあまりプレッシャーや登校刺激を与えてはいけないと思っていますが、その一方で、引きすぎた対応も不登校を長引かせるのではないかと心配してしまいます。その点についてどう思われますか? |
小川 | たとえば、父と一緒に釣りに行ったりすると、不登校中でも少しテンションが上がったりします。そんなときは、「学校、どうするんだ?」という話をされてもあまり落ち込まずに聞けるし、「やっぱり心配してくれてるんだな」と受けとめることができるような気がします。ですから、楽しい時間を過ごしているときにサラッと話しかけるのがいいのかなと思います。 |
池亀 | 引きすぎて、あるいは待ちすぎて不登校を長引かせるのではないかという不安は、親御さんに共通した悩みだろうと思います。 |
Q | 次のステップに進むきっかけになったことはありましたか? |
小川 | いざ動き出そうとしても、中学校3年間は不登校だったわけですから、簡単に行きたい高校を受験できるほど世の中は甘くありません。どうしようかなと思っていたときに、同じ中学校で不登校になっていた女の子から、東京国際学園高等部というサポート校に入学するという話を聞きました。 |
Q | 不登校のきっかけは、テストでよい成績をとらないといけないというプレッシャーが大きかったそうですし、不登校中もお父さんからのプレッシャーがあったわけですよね。そうした状況のなかでサポート校を紹介されて、じゃあ見学に行ってみようと思ったきっかけはなんですか? うちの息子に同じようにサポート校の話をしても、たぶんその段階でたじろいでしまうだろうと思うのですが…。 |
小川 | 私も不登校の初期の頃は頭痛や腹痛に悩まされ、布団から出られない生活が2カ月くらい続きました。その頃は、父親のいろいろなプレッシャーを受け流すことなどできるはずもなく、母も一緒になって「学校に行かないの?」という対応をしていました。 |
中学校で抜け落ちた部分をフォローしてくれる授業
Q | 中学校にほとんど行っていない状況でサポート校に入学されたわけですが、勉強の遅れはどのようにして取り戻したのですか? |
小川 | サポート校は、中学校時代に不登校だった生徒が多く入学してくることもあって、たとえば私の行ったサポート校では、入学すると基本的に中学校の学習内容から教えてくれます。クラス編成も勉強の進み具合によって習熟度別になっていて、基礎ができていない生徒は基礎をしっかり学習してからレベルアップを図り、最初から大学受験を目指す生徒は入学直後からレベルの高い授業を受けるシステムになっています。そのため、中学校時代の勉強の遅れについては、それほど苦になりませんでした。 |
Q | サポート校に入学してから、行きたくないと思ったことはありませんか? |
小川 | 例の“家族会議”のインパクトが強すぎて、そのことに背中を押されたのか、高校3年間は行きたくないとは思いませんでした。また、学校に行きたくなるような先生がいたり、楽しい行事がたくさんあったり、とても居心地がよかったものですから、逆に学校に行けない日曜日がゆううつだったりしました。それは学校のお陰だと思います。 |
Q | お母さんと一緒にカウンセリングに通っていても、カウンセラーをあまり信用していなかったそうですが、それはなぜですか? |
小川 | カウンセリングには月1回のペースで通っていたのですが、「それまで1〜2回しか会っていない人間が、勝手に人の心の中に入ってくるんじゃねーよ」「何がわかるっていうんだよ」という思いばかりが強くて、信用することができませんでした。最初からそんな感じだったので、あまり聞く耳をもたず、質問にも適当に答えているだけでした。 |
Q | 平日に学校に行かず、外出することに罪悪感は感じませんでしたか? お母さんも、それについて反対はしなかったのですか? |
小川 | 当初、両親から責められた頃は外出しようなんて思いませんでしたが、しだいに母が何も言わなくなり、平日も普通にゲームができるようになると、外出してもよいのではないかと思うようになって、後ろめたさは感じませんでした。むしろ、電車に乗って出かけることが楽しかったんです。 |
やっと友だちと同じスタートラインに立てた
Q | お話を伺っていると、小川さんは確信的に不登校を選ばれたような感じがします。たまたま学校に行かないという選択をしただけで、ステップごとに自分できちんと考えて、納得したうえで進んできたというか…。そういう小川さんのパーソナリティは、どのようにして形成されたのでしょうか? |
小川 | 不登校になったのは中1の5月ですが、それまでの人とのかかわりは、小学校からの友人や両親、親戚などに限定されると思います。そのなかで最も密接にかかわってきたのは両親です。父からはムチ打たれ、母からは甘やかされ、祖母にはさらに甘やかされといった生活でしたが、小学校の頃に壁にぶつかった経験はなく、伸び伸びと育てられたのかなと思います。 |
Q | 不登校経験を肯定的にとらえている感じがして、それが大事なのかなと思いますが、そのベースになっているものはなんでしょう? |
小川 | 不登校経験を肯定的にとらえられるようになったのは、つい最近のことです。高校時代は、かつて不登校だったという引け目のような気持ちが強かったし、専門学校に通っていた頃も、友だちにそのことは言えませんでした。 |
Q | 不登校中も比較的規則正しい生活をなさっていたようですが、うちの息子も規則的な生活をしていて、洗濯物を干して取り込む仕事もやってくれます。自分の部屋もきれいにしていて、学校に行っている頃より模範的な生活ぶりなんですが、それは家族への負い目からやっているのか自分でしたいからやっているのか、小川さんはどう思いますか? |
小川 | おそらく息子さんの性格によるものではないかと思います。私も母から料理を習ったりしましたが、部屋はきれいではなかったし、洗濯物を干したり取り込んだりもやっていません。 |
池亀 | 不登校の子どもたちの多くはネットやゲームにのめりこんで昼夜逆転になることから考えると、ご質問者の息子さんも小川くんも珍しいケースと言えるかもしれません。規則正しい生活が苦ではなかったんでしょうね。 |
小川 | 苦ではなかったというより、夜ずっと起きているほうがつらくて(笑)。体質的な問題もあるかもしれませんが。 |
夢を追いかけ、専門学校でも皆勤賞
Q | よくカウンセラーの先生から、「子どもを信頼してあげましょう」「認めてあげましょう」とアドバイスされるんですが、子どもの立場からすると、親に認められた、親が受け入れてくれたと感じるのは、具体的にどんな場面や瞬間なんでしょうか? |
小川 | たとえば、私が夕飯を作ったとき、家族から「美味しい」と言われれば嬉しいですよね。そうやってまわりから認められることで自分の自信につながるものがあると、ステップアップのきっかけになるような気がします。自信になるものがないと動き出そうにも動き出せないと思うので、親御さんから積極的にコミュニケーションをとって、ほめてあげたり励ましてあげたりして、能力を伸ばしてあげるといいかなと思います。 |
池亀 | お子さんの将来を心配されている方もいらっしゃると思いますので、サポート校を卒業してからの進路の話をちょっと聞かせてください。専門学校に進むか大学に進むか、迷ったそうですが? |
小川 | 高校のときは文系人間で、数学は嫌い。小説が大好きで現代文を中心に勉強していたので、大学入試でも現代文や英語で点数をとっていけばいいかなと思っていました。 |
池亀 | 小川くんは専門学校でも皆勤賞だったそうですが、それは自動車メーカーに入りたいという夢があったからですか? |
小川 | 自動車整備の専門学校に入ったんですが、手先があまり器用じゃなくて…。それでも自動車メーカーに就職して、設計や実験など車の開発の仕事に就きたいと思っていたので、そのためにはどうしたらいいか専門学校の先生に相談しました。すると、どのメーカーも優秀な大学から人材を募集したいと思っているのではないかとのことでした。 |
Q | 今の会社に入るとき、不登校だったことは話しましたか? |
小川 | それについてはずっと迷っていて、逆に不登校だったことを武器にしようかとか、でも、カミングアウトすることで悪い印象を与えるんじゃないかとか、葛藤しました。 |
目標に向かって動き出す力が、新しい自分に変わるチャンスをくれる
Q | このような場で初対面の人がたくさんいるなかで不登校体験を話せるということは、不登校をいい体験としてポジティブにとらえ、克服できたということでしょうか? |
小川 | 中学校時代に不登校になってサポート校に進み、そこでいろいろなことを考え、専門学校に進学し、現在、自動車メーカーで仕事をしている自分がいることを考えると、不登校という経験を起点にした人生の流れに乗っていることに満足しています。 |
Q | 自動車のことが好きになり、それに関連した仕事に就きたいという目標が大きなモチベーションになったように感じますが、不登校のときに何かひとつでも夢や目標があれば、不登校から脱却する力になるものでしょうか? |
小川 | 不登校になると、目標は何も見えなくなります。私の場合はそれよりも、ほかの人と同じスタートラインに戻りたいというのが当面の目標だったので、それに向かって高校3年間、勉強できたことは大きかったと思います。 |
池亀 | そろそろ時間ですので、これで終わりにしたいと思います。みなさま、小川くんに拍手をお願いします。ありがとうございました。(拍手) |
小川哲哉さんからのメッセージ 「不登校だった3年間に得たもの」
不登校だった中学校3年間をふりかえって最初に思うのは、「もったいなかったな」という思いです。ただし、誤解がないように補足すると、あくまでもったいなかったという印象だけで、重要なのは「後悔」の念を抱いていない点です。
なぜなら、不登校にともなって得た知識(ゲームや小説に関連するものなどいろいろ)や友人は、今ここにいる自分を構成するうえで欠かせない大切なパーツであり、その経験をバネにこれまで歩んできたという自負があるためです。
なぜ、もったいなかったという思いに至ったかといえば、単純な話、もっと友人とコミュニケーションをとりたかった、と今さらながらに思うことがあるからです。
私の不登校期間は中1の5月から中3の終わりまでですが、そんななかにあっても、私の一番の友人といえる人物は、不登校だった中学時代に得た友人です。不登校で学校に行かず、ふらふらしていた私とつき合ってくれた友人たちは、今でも私の大きな支えになっています。
そんな親友と過ごせたであろう時間を無為にしてしまった点については、もったいなかったかな、とそういう思いでいます。
とはいえ、学校に行っていたら友人でなくなっていたかも? という可能性は、ゼロではありません。そういった点でいえば、やはり私は不登校だった自分に、ある意味での感謝をしているのです。