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登進研バックアップセミナー87・講演内容
その登校刺激は彼らをどう変えたのか Part.2
2013年12月8日に開催された登進研バックアップセミナー87「その登校刺激は彼らをどう変えたのか」の内容をまとめました。
講 師:小澤美代子(さくら教育研究所所長)
司 会:齊藤真沙美(臨床心理士)
※ゲストの方々のお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。
登校刺激のポイント
小澤 |
今日のお二人の話のなかに登校刺激を考えるうえでヒントになることがたくさんありました。ひとつだけ気をつけてほしいのは、登校刺激は「方法論」ではないということです。藤井さんが話してくれたように「牧場物語」のゲームを買ってあげればどんな子も癒されるのかというと、決してそうではありません。それぞれのお子さんに合った接し方をすることがとても大切です。 |
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①小さな話題から出す
小澤 | 実際に登校刺激をするときのポイントをいくつかあげてみましょう。 |
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②子どもの反応をよく観察する
小澤 | そうした話題を振ったとき、子どもは必ずなんらかの反応をしますので、その反応をよく観察してください。 |
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③担任が家庭訪問に来たとき
小澤 | 担任などが家庭訪問に来たときは、その後の子どもの様子をよく見ておいてください。訪問時に先生と話しているときは機嫌よく返事をしていても、担任が帰ったあとで大荒れすることがあります。家庭訪問という刺激がまだ強すぎたのです。このような場合は担任にその旨を伝え、訪問を2~3週間ひかえてもらいましょう。 |
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「状態像チェックリスト」を使って、その子の段階に合わせたかかわり方を
小澤 | 自分の子どもがいまどのような状態にあるのかは、なかなか把握できないものです。親御さんは毎日一緒にいるために子どもとの距離が近すぎて、かえって見えにくい部分もあり、ちょっとした変化にも気づきにくい側面があります。 |
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進路を決めるまでのプロセス
齊藤 | ここで、お二人の体験談に戻って、進路選択についてお話を伺いたいと思います。三田さんの場合は「編入」というかたちですが、そこに至るまでの経緯について教えていただけますか。 |
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三田 | 進路選択については、母が自分の気持ちを十分に汲みとってくれたうえで、都内にあるサポート校をすすめてくれたのだと思っています。最初の学校見学は、自分が「母と行きたくない」と言ったので、メンタルフレンドの人と一緒に行ったのですが、そのメンタルフレンドの派遣を手配してくれたのも母ですし、母によって立ち直りのルートへと導かれていったような気がします。 最終的には、中学校の同級生と顔を合わせる可能性のある近くの学校ではなく、地元から離れた、自分のことを誰も知らない学校であること、こぢんまりとしたアットホームな雰囲気の学校であること(学校然としたところに嫌悪感がある)が選択の決め手となりました。 |
藤井 | 私は、通っていた適応指導教室の窓から見えるところに県立高校があったので、自然と高校進学について考えるようになったというか、その窓から見える景色が嫌みのない登校刺激になっていたような気がします。 中3になってからずっと高校進学のことは頭にありましたが、正面から向き合いたくない気持ちと、不登校の私が高校なんて行けるわけがないという気持ちがあって、なかなか具体的な行動に踏み出せませんでした。そんな状況のなか、適応指導教室の友人が「私立高校に行きたい」と頑張っている姿に刺激を受けたことも大きかったように思います。 私のなかでは、高校進学というより「大学に行きたい」という気持ちのほうが強くなっていて、でも、高認試験(高等学校卒業程度認定試験)は難しいような気がしていたので、大学に行くためには、やはり高校に行かないといけないと思っていました。 高校選びの際、母はいろんな本や情報を集めてくれて、二人で相談して最初は私立高校を検討していたのですが、不登校のことを口に出すと電話で軒並み断られてしまい、通える範囲にあって不登校枠のある県立高校を受験することにしました。 受験は、よく夏休みが大事といわれますが、私は中3の夏休み明けから家庭教師に来てもらって、英語はbe動詞から、数学は四則計算から勉強を始めて、とても間に合わないと思っていたけど、いったんやる気になると、それまでやらなかったぶんどんどん頭に入ってきて、中学3年間の英語の範囲も数カ月で終わらせて、なんとか希望の高校に進学することができました。 |
高校入学後、毎日通えるかという不安をどう乗り越えたか
齊藤 | 高校入学に際して、毎日通えるかとか、不安はありませんでしたか? |
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藤井 | 希望どおりの高校に入学できたのですが、ここでもまた過剰適応のような感じになって、「自分は5年間学校に行かなかったのだから、他人の5倍は頑張らないといけない」とか、毎日「休んじゃいけない」と思いながら通っていました。 そんなに偏差値の高い高校ではなかったので、ちょっと頑張って真面目に勉強していたらクラスでトップになってしまって、まわりから「あの人、頭がいいんだ」と思われるようになり、不登校だったことも隠していたので、また自分で自分を追い込むようなかたちになってしまいました。 案の定、息切れを起こして、たまに遅刻するようになったのですが、当時の担任がとても理解のある先生で、「放課後までに来れば、それは出席だよ」と認めてくれたので居心地はよかったです。 |
齊藤 | 不登校だったことを隠しているのってストレスがたまりませんか? |
藤井 | 高校に入ってからも、毎週末、適応指導教室で出会った友人たちとサイゼリヤで食事をしながら、いろんな気持ちを吐き出していました。「また一週間頑張ろうね」と励まし合う関係が続いていたので、それに支えられてなんとか高校に通うことができたのだと思います。 勉強についても、小5から不登校だったので分数の約分の意味がわからないなど、小学校レベルの学力がすっぽり抜けている部分があり、小学生用のドリルにカバーをつけて、こっそり勉強したりして、自分なりに補ってやっていました。 |
三田 | 私が不安だったのは、高校を一年間留年していることでした。クラスの友だちに、年がひとつ上であることがバレないかと、とても不安でした。年上であることがわかると、クラスで浮いてしまったり、みんなと話が合わないんじゃないかとか、いろいろ考えてしまって……。 そんなこともあって、登校初日はかなり迷いました。早めに起きて、行く準備もしていたのに、「いままで不登校だったし……」「一年留年しているし……」とか考えはじめると、「行きたくないなあ」となってしまう。 制服を着たり脱いだりしているうちに昼過ぎになってしまい、そこへ父親がやってきて「とりあえず行ってこい。行くだけでいいから行ってこい」と言われて、ようやく家を出て電車に乗り、なんとか学校に行きました。なので、私がクラスメートと初めて対面したのは、朝のホームルームではなく、放課後のホームルームでした。 その後、クラスメートと打ち解けるようになっても、留年のことがバレないかずっと不安でした。そのため、わざとクールキャラを装ったり、朝行ったらすぐ机に座って『羅生門』を読んだりして"話しかけるなオーラ"を出したり……。結局3年間、誰にもバレずに卒業できたんですが。 |
齊藤 | すごく疲れたんじゃないですか? |
三田 | じつは高校入学後1~2週間で、気をつかいすぎて疲れてしまい、また行けなくなったんです。そのとき先生から「毎日来る必要はないから、顔を出せそうな日だけ教室に来て。昼過ぎでもいいから」と言われて、気持ちが楽になりました。 翌日から言われたとおり昼過ぎに行って、授業には出ずに先生とだけ話して家に帰ったりとか。そうしているうちに友だちもできて、少しずつ「学校は楽しいなあ」と思えるようになり、朝から行けるようになってきました。クラスメートも過去につらい体験をしている人が多く、暗黙の了解として「過去のことにはふれない」という気づかいの空気みたいなものがあり、とても楽でした。 いちばんよかったのは「毎日来なくてもいいよ」と言ってもらったことです。それまで精神的にしばられるような環境のなかで生活してきた私にとって、衝撃的な言葉でした。その言葉のおかげで気持ちがリラックスし、逆に学校に行きたくなるような気持ちにつながっていった気がします。 |
不登校だったころ、心の支えになっていたこと
齊藤 | 不登校だったころ、心の支えになっていたことがあったら教えてください。 |
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三田 | まず、心の支えとして大きかったのは、同じ不登校を経験した友だちです。夜の公園で会うたびに、「俺たちこれからどうなるんだろう」「死んだほうがマシなんじゃないか」「俺たちゴミみたいな存在だよなあ」とグチを言い合うことによって悩みを吐き出すことができ、ストレス発散にもなっていました。 母親と姉の存在も大きかったと思います。すぐにキレたりする自分にいつも優しく接してくれた母と、不登校のことにはふれずに陰で心配してくれた姉によって、「自分はこの家にいてもいい存在なんだ」と思えるようになり、少しずつだけど前に進めたのかなと思っています。 わたしが現在こうしてあるのは、こうした友だちや母、姉、そして、不登校状態の私をそのまま受け入れてくれたサポート校の先生や支えてくれたまわりの人たちがいたからこそだと思っています。ここにいらっしゃるみなさんからすれば、お子さんが不登校であることから不安が大きくなり、まわりの子と学力や成長面で差がついてしまうと思われるかもしれませんが、私からしたらふつうに階段を上ってきた人のほうがつまらない人生を送っているような気がします。それは大学に入学して感じた第一印象でもあります。いまでは、ひきこもったことも大きなプラスになったと思っています。 最初の高校に入学するまで、私は、自分では何も決めずに母親まかせにしてきました。不登校になったのは、そのことのツケが回ってきたからだと思っています。やはり自分の人生は自分で決めるべきであり、目標をもつことの大切さを不登校を経験して学びました。 だから大学は自分で決めたところに入学したし、これからは迷惑をかけた両親に恩返しをしていきたいと思っていて、将来は父の仕事である不動産業を継ぎたいと考えています。すでに就職先も不動産会社に決まっていて、父の仕事を継ぐまでそこで勉強したいと思っています。 |
藤井 | 私の場合、心の支えとして思いつくのは適応指導教室で出会った友人です。その友人たちとは出会って10年くらいになりますが、いまでも仲がよくて、一生の友だちになるかなと思っています。 そして、その適応指導教室を紹介してくれたのは母であり、家にひきこもって「牧場」を作ることしかできなかった私を外に連れ出してくれたのも母でした。社会と私をつないでくれたという意味で、母にはとても感謝しています。 母との関係で印象的だった出来事は、妹の幼稚園バスの送迎に、母が私を連れていってくれたことです。ママ友から「お姉ちゃん、学校は?」と聞かれて、「ちょっとお休みしていて」と母が答えてくれたときは本当にうれしくて、私のことを受け入れてくれたんだなあと実感しました。 不登校になった当初、ひどく荒れていた最初の3週間を除けば、母はほとんど登校刺激的なことを言ってこなかったんですが、私にとっては、何も言われないくらいのほうがちょうどよかったと思っています。私自身が「自分の力で元気になっていきたい」と思うタイプだったので、母に厳しくガーガー言われていたらパンクしていたかもしれません。 高校入学後は「一日休んでしまうと、また不登校に戻ってしまうかも」という不安があってヒヤヒヤの毎日でしたが、もうほかに行くところがないという“背水の陣”的な心境で通っていました。でも、だんだん自分のペースがつかめるようになり、これ以上頑張ったらパンクするという限界がわかるようになってからは、「今日は無理せず休もう」と自分で自分をコントロールしたり、担任の先生に頼んで「単位を落とさない範囲で、あと何回くらい休めるか」という表を作ってもらい、休めるときはギリギリまで休むことで高校生活を楽しむことができるようになりました。 そのうち、「1日や2日くらい休んでも自分はもう不登校には戻らない」という自信がついてきたことが、私にとって回復を実感できたときだったと思います。 文章を書くことが好きだったので高校時代は文芸部に所属し、不登校をテーマにした小説を書きました。「学校に行くのも強いことかもしれないけど、行かないことも自分にとっては強さなんだ」という思いを伝えたくて書いたら、それが地元の文芸誌で入賞して掲載されたんです。その小説が認められたことで、自分の生き方が認められたような気がして、とてもうれしかった。 じつは来年から大学院で心理学を勉強し、将来はカウンセラーになりたいと思っています。そして、不登校の子どもたちにとって、その子の不登校体験が人生の財産につながるようなサポートができれば、と思っています。 |
「斜め後ろで見守る」ことが大事
齊藤 | そろそろ時間が迫ってきましたが、お二人から会場のみなさんにメッセージをお願いします。 |
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藤井 | 私は、不登校になったことについてはまったく後悔していません。この経験は自分にとって人生の財産だと思うし、10~12歳という思春期前期の段階で人生や生や死について考えたり、親について考えたことは、とても貴重な経験でした。また、適応指導教室で友人たちと出会えたこと、両親とたくさん話す時間をもてたことによって、自分にとってかけがえのない時間を過ごすことができたと思っています。 現在、不登校で苦しい時間を過ごしているお子さんたちも、いまは難しいかもしれませんが、ゆくゆくは「これでよかったんだ」と思えるときが来ればいいなあと思います。 |
三田 | 私自身も不登校に関して後悔はしていません。不登校を経験した人のほうが、物事を深く考えたり、自分と向き合う時間をより多くもつことができるような気がします。その時間が、自分を取り戻す意味で大切なものだったと思っています。 先日、私が不登校だったころに母が書いていた日記を見せてもらいました。そこには悩み苦しむ母の様子が綴られていました。 「子離れを誓いなさい。親としていま彼にできることは何なのか。何をすべきなのか。思いは息子にはりついて離れないのに、先の見えない不安について何もしてやることができないのか。何をしてやってはいけないのか。私はどうしたらいいのか」 こうした不安な気持ちを圧し殺して私に接してくれた母のことを思うと、申し訳ない気持ちと同時に、感謝の念でいっぱいです。 |
齊藤 | 最後に小澤先生にお二人の体験談に関する感想を、登校刺激とのかかわりも含めてお話しいただければと思います。 |
小澤 | このお二人は、不登校という苦しい体験を将来のプラスになる経験にすることができました。しかし、たくさんの不登校事例に接してきた私の経験からいうと、必ずしも人生のプラスにならないこともあり、このお二人は希有なケースと言えるかもしれません。 まず、お二人には、まわりの人たちの堅実なサポートがありました。三田さんのお母さんの日記についても、私自身3人の息子の母親なので、お母さんの息子さんにかける思いというか、「思いは息子にはりついて離れない」という愛情についても、よくわかるような気がします。そうした思いを前面に出さずに、懸命にサポートされたことが現在につながっているのだろうと思います。また、三田さんはお父さんの家業を継ぐということで、これ以上ない素晴らしい親孝行になるのではないでしょうか。 藤井さんについても、彼女の繊細な感性を生かしてカウンセラーとして頑張っていくということですが、きっと不登校体験が子どもたちをサポートしていくうえで何よりの財産になっていくと思います。 親御さんのサポートというのは、押しすぎてもダメだし、ひっぱりすぎてもダメ。本人が望むことをしてあげるのがベストです。私はそうした親のスタンスを、よく「斜め後ろで見守るのがいい」と言っています。もちろん転ばぬ先の杖となるのはよくないし、クレバスのような深い穴に落ちそうになっているときはしっかり手を握らないといけない。けれど、そうなる前に押したり引いたり、あれこれ手を出すのは賢いサポートではありません。ここぞ!という大事なタイミングのときだけ、決して力ずくではなく、ありったけの知恵をしぼって全力でサポートする。それがクレバスに落ちないようにする手立てだと思っています。 |
齊藤 | 三田さん、藤井さん、小澤先生、そして会場のみなさま、長時間ありがとうございました。 |