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登進研バックアップセミナー90回記念スペシャルトーク

人はなぜ不登校になるのか 第二部


2014年9月7日に開催された登進研バックアップセミナー90「90回記念スペシャルトーク」の内容をまとめました。

講師・司会を務めていただいたのは、次の方々です。
講師 海野千細(八王子市教育委員会学校教育部教育支援課相談担当主任)
   今村泰洋(世田谷区総合教育相談室教育相談専門指導員)
司会 小栗貴弘(作新学院大学女子短期大学部講師)

テーマ③:きょうだいへの影響

     

小栗 3つ目のテーマ「きょうだいへの影響」に関する2つのご質問を読み上げます。きょうだいで不登校になった場合と、きょうだいのひとりが不登校になった場合とでは対応も違ってくると思いますが、その前に不登校になった当事者のきょうだいの心の状態について伺ってみたいと思います。
 弟(13歳)の不登校によって、姉弟の関係が悪くなった。姉は弟が学校に行かないことが許せないし、親が無理に学校に行かせようとしないことを甘やかしと思っている。姉にどんな説明をしたらよいか。
 兄(17歳)はいじめから不登校になったが、妹(14歳)も学校のやり方についていけず不登校になった。きょうだいで不登校になった場合、どのように接して暮らしていけばよいのか、注意点などを教えてほしい。
今村  最初のご質問は、カウンセラーとしてよく出会うケースかなと思います。
 きょうだいで不登校を経験した上の子(お姉さん)が、そのときの気持ちを話してくれたことがあります。この子の場合、最初のご質問の弟さんとお姉さんのような経験をしてきた部分があります。たとえば、親が弟を無理に学校に行かせないことについては、「私のときは、あんなにきつく学校に行けと言って家から押し出したりしたのに、弟のときはどうして簡単に行かないことを許すわけ?」と、親の対応を比較して見ています。
 その一方で、自分を弟さんに置き換えて見ているところもあるような気がします。つまり、「自分も弟と同じような思いをしたから、弟の学校に行きたくないという気持ちはわからないではない」という気持ちです。でも、もう一方では「つらいかもしれないけど頑張って」と応援するお姉さんもいるわけです。
 3人きょうだい(上の2人は姉妹)のいちばん下の弟さんが不登校になったケースを担当したことがあります。興味深かったのは、上の2人の姉妹の対応が対照的で、すぐ上の次女は「そんなんじゃダメじゃない! 甘えんじゃないわよ!!」と親代わりにガンガン言うタイプでした。ところが、長女は「そういうこともあるよね。でも、ちゃんとごはんは食べたほうがいいよ」と仏様のような対応だったのです。
 不登校の子どものきょうだいには、この2人の姉妹のような両方の感覚があるのではないでしょうか。弟を大事に思う気持ちと叱咤激励したい気持ちの両方をもっていて、これはもしかしたら親御さんも同じ心境なのかもしれないという気がします。
 きょうだいというのは、親に対する思いもあれば、不登校の弟に対する思いもあり、そして、自分に対する思いもある。たとえば、最初のご質問のお姉さんが弟と同じ中学校の3年生だったら、学校の先生とかクラスメイトから「おまえの弟、学校に来てないみたいだけどどうしてんだ?」などと言われるかもしれない。それはとてもつらい体験です。お姉さんが高校生だったり、弟と別の学校だったら、また違う思いを抱くかもしれない。このように、きょうだいの年齢差や置かれた環境によっても状況は違ってくると思いますが、多くの場合、年上のきょうだいというのは、優しい思いも、強い思いも、厳しい思いももっているように思います。

不登校の子どものことを、きょうだいにどう説明するか

     

小栗  次に最初のご質問にある、きょうだいに対して不登校の子どものことをどのように説明したらいいか、について海野先生にお聞きしたいと思います。
海野  きょうだいの一人が学校に行っていない状態のなかで、親がその子の気持ちを受けとめようと思って学校に行かないことを認めると、もうひとりのきょうだいが、そういう親の対応を批判したり、怒ったりすることは少なくありません。そんなとき、学校に行っているきょうだいに対して、不登校の子のことをどう説明したらいいかということですが、このお姉さんが怒ったり厳しいことを言ったりするのは、弟の事情を説明してほしいと思っているのかと考えると、説明なんかいらないんじゃないかという気がします。そんな説明をしてもらっても、お母さんの言い訳を聞かされているような感じになってしまいそうだし、弟の状況を説明して、「この子はこんなに大変なんだから、わかってやってね」なんて言ったら、よけいにお姉さんの怒りの火に油を注ぐような結果になるんじゃないかと思います。
 もし、このお姉さんに言うとしたら、「ああ、あなたも休みたいと思うときがあったかもしれないね。我慢して行ってて、そんなことを思ったりしたことがあったとすれば、お母さんが弟をかばっているような気がして腹が立つよね」という感じでしょうか。つまり、弟の事情を説明しようとするよりは、怒って厳しく対応しているお姉さんの気持ちに寄り添ってあげたほうが、おそらくもっといろんな思いを話してくれると思います。
 いままでその子がどんなにつらい思いをして学校に行っていたかを、その機会に話してくれるかもしれません。そのとき、その子の気持ちを親としてわかってあげられなくて申し訳ないと思ったら、そこで、あらためてお詫びをすればいいのではないでしょうか。

きょうだいで不登校になったとき

     

小栗  次に2番目のご質問にある、きょうだいで不登校になった場合の対応についてお聞きしたいと思います。
今村  きょうだいといっても、性格や興味・関心、考え方も違うわけですから、きょうだいで不登校になった場合、2人に共通して取り組むことと、個別に取り組むことがあるような気がします。
 共通して取り組むこととしては、たとえば、それまで朝食は家族全員そろって食べるというルールがあったとしたら、「ごはんだよ」と声をかける際、2人に同じように声をかける。ただし、「ごはんだよ」と声をかけたあとにちゃんと起きてくるか、「うるせー」と文句を言うかは本人しだいということになります。要するに、朝どっちかは起こすけど、もうひとりは起こさないという対応ではなく、両方に声をかけるということです。
 個別に対応することとしては、たとえば勉強ひとつとっても17歳のお兄さんと14歳の妹さんとでは内容も違うし、勉強の仕方も違ってくるはずです。人づきあいの面でも、高校生のお兄さんなら友だちのラインやメールに返信しなくなったとか、妹さんの場合は担任に頼まれた同級生が放課後にプリントを届けてくれるといったこともあるかもしれません。このように交友のあり方も変わってくるので、なんでもかんでも一律に対応しなくちゃいけないと考えないほうがいいでしょう。ただし、一人ひとりが違うんだから、お兄ちゃんは起きてこなくてもいい、とはならないようにすべきだと思います。

テーマ④:回復へのプロセス(エネルギーがたまるとは?)

     

小栗  4つ目のテーマ「回復へのプロセス」に関するご質問に移りたいと思います。
 不登校のお子さんや親御さんとかかわっていると、「エネルギーがたまっていない」とか「エネルギーがかなりたまってきた」という話をよく聞きます。回復の目安がわからないという不安は、多くの親御さんがもっているだろうと思います。冒頭でお話しいただいた「回復の見通し」にも関連するかもしれませんが、そのことも含めて海野先生にお聞きしたいと思います。
 子どものエネルギーがたまってきた状態なのか、まだたまっていないのか、いまためている最中なのかは、どのように見分けるのでしょうか。カウンセラーなどに見てもらうのでしょうか。

学校を休むことも「回復」の始まり

     

海野  たとえば、登山することを想像してみてください。高い山の場合は、まずベースキャンプを張り、さらに二次キャンプ、三次キャンプを張りながら、頂上をめざして登っていきます。不登校になることを登山にたとえると、まわりの空気は薄く、寒くて、食べ物もなくなってきて、このまま登山を続けたらどうなってしまうんだろうという状況に似ているかなと思います。登山隊が頂上を極めようとする途中で、そのなかの一人が凍傷で動けなくなった場合は、二次キャンプ、一次キャンプへと戻ってきます。そこで体力の回復を図り、再びトライするわけです。
 不登校の回復のプロセスを考えるとき、おそらくみなさんは再び山に登り始めるときが回復へと向かうイメージだと考えるのではないでしょうか。それはわかりやすい解釈ですが、私がここで提案したいのは、「苦しい」「助けて」と言えるようになることも、じつは回復のプロセスである、と考えてみたらどうかということです。学校に行っていないとか、ときどき学校を休むとか、月曜日になると遅刻をする、あるいは早退して帰ってくる。こうしたことも、じつは回復のプロセスなんだ、と考えていいと思います。
 「苦しい」「助けて」→「このままじゃダメになってしまう」→だから、学校を休んで家(一次キャンプや二次キャンプ)で体力や心の回復を図る、と考えるとわかりやすいかもしれません。
 体力が少しずつ回復しはじめると、そこから再び登っていくためのウォーミングアップを始めたり、登山の練習みたいなことをやりはじめたりと、さまざまな変化が起こってきます。みなさんからすれば、まさにこのときが回復のイメージだと思いますが、じつはそれだけではなく、調子が崩れてくることも、「もうダメ」「助けて」と言えるようになったという意味で、回復のプロセスに入ってきていると考えられます。目の前でゴロゴロだらだら好き勝手なことをやっているわが子の姿を見ていると、とても回復してきているとは思えないかもしれませんが、その後の流れを見ると、「あれは回復のプロセスだったんだ」と感じることができると思います。
小栗  苦しい、助けてと言えること、早退や遅刻ができること、さらには学校を休むこと自体が「回復の始まり」というのは新しい視点だろうと思います。  私たちカウンセラーからすると、不登校の子どもと会えるというのは大きい要素です。第三者に会って、「苦しい」「助けて」と言えるだけでも、こちらとしては、その子とかかわる術が見えてきます。そうした外に向けたSOSを発信できること自体が、回復のプロセスなんですね。
海野  少し補足すると、「助けて」と口や態度に出してくれれば、まわりは助けられるんです。ところが、不登校の子どもたちは「助けて」ではないかたちで「助けて」を言いますから、すごく受けとめにくいわけです。でも、受けとめにくけれどもSOSのサインを出してくれていること自体が回復のプロセスと思っていただければいいなかと。

子どものエネルギーは外から注入できない

     

小栗  質問のなかに「エネルギー」という言葉が出てきますので、エネルギーについて、以前、今村先生が「エネルギーは外から注入できないものだ」というお話をされたことがありますが、そのことも含めてお聞きできればと思います。
今村  エネルギーを別の言葉に置き換えると「元気」かなと思います。では、その元気はどこから来るの? と考えたとき、外から元気をもらうのではなく、自分のなかで生まれてくるのではないかと思います。私たち大人もそうですが、元気が出たり、もう少し頑張ってみようかなと思うときは、うれしかったり、励みになることがあったときのような気がします。これをやると喜んでくれる人がいると思うと、もう少し頑張ってみようかなと、自分のなかにわき上がってくるものがある。
 いま、海野先生が学校に行けなくなった段階から回復の一歩が始まっていると考えることができると言われましたが、子どもたちはそこに至るまでに相当エネルギーを使い果たしているような気がします。「自分で踏ん張らないといけない」とか「自分でここを乗り切らないといけない」とか「なんとか追いつかないといけない」とか、いっぱいエネルギーを使いながらやってきたのではないでしょうか。
 そういう状態の子どもに対して、外から入ってくるエネルギーとして叱咤激励のようなものが入ってくるわけですが、「もう少しだから頑張れ」とか言われたときに、果たしてその気になるかというと、ある部分ではなるときもあるかもしれませんが、「それは無理」という感じになるのではないでしょうか。
 自分を動かすエネルギーが涸れてしまった状態になると、外からいくらエネルギーをもらっても動けません。あくまで自分のなかで「やってみよう」とか「こうしてみたい」という気持ちが起こらないとなかなか動けない。まずは自分のなかに何かをやろうとする芽が出ないと始まらないのだろうと思います。
 そういう意味では、エネルギーが自分のなかにわき起こってくることが、動き出すための最低条件になるような気がします。そのエネルギーがわき起こっている徴候として、さまざまな小さな変化が起こるのだろうと思います。

親の期待するような変化はいちばん最後に出てくる

     

小栗  今村先生がおっしゃったように、エネルギーがたまってくると子どものなかにいろいろな変化が起こります。それは必ずしも親が望むような変化とは限らないわけですが、一般的にどんな変化がみられるようになるのか、海野先生にお話しいただきます。
海野  まず不登校の子どもたちに起こる変化として、「いろいろなことに興味・関心が出てくる」ということがあります。しかし、その興味・関心は、親が期待しているものとはいちばん遠いところから出てくることが少なくありません。なぜなら、これまで親の期待に応えようとして押し殺してきた興味・関心は、親の期待にそぐわないことが多いからです。たとえば、「最近、小説も読むようになってきました」と喜んでいる親御さんもいらっしゃいますが、これがじつはSM小説だったりH系の小説だったりする(笑)。「ゲームやネットばかりでなく、たまには本を読むようになった」場合でも、ゲームやネットから興味が広がって、攻略本を読むようになったのかもしれない(笑)。「ニュースや報道されている事柄に関心をもって、知らない言葉を聞いてくるようになった」場合でも、その質問が「射精って何?」だったり(笑)。要するに、勉強とか進路とか、親の期待に応えるような変化はいちばん最後に出てくると思ったほうがいいです。
 自分のなかから興味・関心が出てくることが、本人をもっとも力づけます。本人が「これだ!」と思って活動を始めることが、その子にとっていちばん力が出ることなんです。親の期待に合わせようとすると同じことのくり返しになりますから、その子にとって本当の力に結びつかないことが多いのです。自分の興味・関心を活かすことから広がったものは、最終的には親の期待するようなものになっていくのですが、それはあくまで結果です。

メインテーマ:人はなぜ不登校になるのか

     

小栗  いま、子どもたちの変化についてお話しいただきましたが、不登校を子どもからのメッセージとしてどう受けとめるかとか、受容しなければいけないとか、わが子が不登校になったことで、親は価値観の転換を迫られることが多いと思います。では、子どもの不登校は家族にとってどんな意味をもっているのか。そして、本日のテーマである「人はなぜ不登校になるのか」について、おふたりにお聞きしたいと思います。
海野  今日は「人はなぜ不登校になるのか」という非常に大きいテーマをいただきましたが、「なぜ」というのは、原因・理由だけでなく、目的にも使われる言葉です。たとえば、「私たちはなぜ生きているのか」というとき、その「なぜ」は理由を聞いているというより、「なんのために生きているのか」という問いかけだろうと思います。そこで、不登校という問題を「なぜ」という目的風に考えてみると大事な発見があるような気がします。
 その前にひとつお話しすると、不登校は原因や理由がわかれば対処法が見つかるのではないかと思われがちですが、実際のところ、不登校の"犯人探し"をすることがその子にとって力になるかというと、多くの場合なんの力にもなりません。それどころか、逆に問題を増やすことにしかならないケースが多いともいえます。
 それよりも、この子はなんのために不登校になったのだろうと考えたとき、その家族にとっての不登校の意味が見えてくる場合があります。その意味に相当するものとして、「ああ、この子はこういうことがあって不登校になったんだなあ」とストンと納得のいくようなストーリーが創れると、親をはじめとして、その子にかかわっている人々がみんな元気になれるような気がします。
 そんな事例をひとつご紹介します。中学1年から不登校になった男の子がいて、お母さんがいろいろなことを受け入れざるを得なくなり、その子もいろいろなことを要求するようになってきました。中学2年の後半、思春期にさしかかったその子は、女の子のヌード写真が載っている雑誌を買ってこいとお母さんに言うようになります。そのときお母さんは50歳を超えていましたが、本屋やコンビニに行ってそういう雑誌を探してくる。それが恥ずかしくて嫌でたまらなく、ものすごくつらかったと言っていました。
 そんなお母さんがあるときふと、その子がいつもお母さんに命令口調で怒鳴るようにものを言っていることに気づきます。
 「そういえば私はあの子が小さいときから、なんでも怒鳴って命令をしてきたような気がします。もしかしたら、あの子はあの頃の私をマネしているんじゃないでしょうか」
 それはお母さんの勝手な思いですが、その子がなぜそんなことをするのかに気づいたとき、その子に心から詫びて、もう一度、母親としてやり直していこうという気持ちで接することができるようになったといいます。その後、その子は夜中にワーッ!と大泣きをします。その子はそこで泣いたことで、お母さんにやっと「助けて!」と言えたのだと思います。その後、彼は家を出て定時制高校に通い、いまは元気に自活しています。
 このように、この子が不登校になったのは誰が悪い何が悪いということではなく、この子は何を訴えているのだろうかというところで受けとめられるストーリーが家族のなかで見い出せると、親も子も元気につながっていくような気がします。

「なんのために生きるのか」という問いに気づいた子どもたち

     

今村  私は、この子は不登校になった段階で、あることに気づいたんだろうなと感じることがあります。それはつまり、「なんのために生きるの?」という問いに気づいてしまったのではないかということです。こうしたテーマは、大人にならないと考えないのかというとそうではなくて、子どもだって考えているんだと思います。
 「どうして毎日あんな嫌な先生から勉強を教えてもらわないといけないのだろう」と疑問を感じたとき、それは単純に「なぜ勉強するのか」とか「なぜ学校に行かなければいけないのか」だけではなく、「どうしてこんな思いまでして生きなきゃいけないの」という究極のテーマに気づかされたのではないでしょうか。そして、そうしたテーマを抱えながら自分は生きていくんだということに気づいてしまったのではないでしょうか。
 「いま自分はなんのために生きているのか」という大きなテーマは、不登校の子どもたちにとって、いまは考えたくないし、考えても答えが見つかりませんから、とりあえず横に置いておきたい。それで彼らは、まず最初に何も考えていないような生活に入ります。ひたすらゲームをやりつづけるとか、音楽を聞きつづけるとか、テレビをずーっと見ているとか、受け身的なことだけを選択して、自発的に考えなくても済むようなところに自分を置くことで安定するわけです。
 ところが、不登校の発端になったことが、たまたま学校に行っている間に起きたので、いちばんネックになることとして「なんのために毎朝、同じ時間に起きて、学校に行き、勉強しなければいけないんだろう」と考えざるを得ないんだろうと思います。そして、これから何十年も生きていくうえで、「人はなんのために生きていくのかという問いかけをしていかないといけないの?」というテーマが自分のなかに出てきてしまった。だから、「それくらいのことで学校を休むなんて」とか「友だちに何か言われたくらいでどうするんだ」とか言われたとしても、気づいているテーマは「自分はこれからどうやって生きていけばいいのか」なんだと思います。
 つまり、その子が前に向かって進んでいくためには、この問いに向き合わなければいけないという意味で、一歩を踏み出したんじゃないかと思います。今回のテーマにからめていえば、その子が「どうして不登校になったの?」と考えたときに、「自分はなんのために生きているの?」というテーマに向き合おうとしていると考えれば、応援してあげたいなあと思います。
小栗  本日のテーマについて、海野先生も今村先生も原因・理由ではなく、目的としてとらえていたのが印象的でした。原因・理由の追及は、ややもすると共感や受容といったところから遠いものになるような気がします。
 先日、私の妻に「富士山がきれいだね」と言われたとき、私は「今日は空気が澄んでいるからね」と返しました。ここにいらっしゃるお母さん方ならその返し方がダメだということがわかるかと思いますが、妻にいわせると、「そうじゃなくて、『きれいだね』と言われたら『きれいだね』と返してくれればいい」と。
 親御さん、とくにお父さんは、「どうしてわが子は不登校になったんだ?」という原因・理由を追及しすぎて、子どもの気持ちを受けとめることがおろそかになりがちです。原因は見つからなくても、元気になるケースはたくさんあります。
 そこで、原因ではないところで、「うちの子はなんのために学校を休んでいるんだろう」といった考え方をしてみると、新たに見えてくるものがあるのかなと思います。おふたりの先生、そして会場のみなさま、長時間ありがとうございました。

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