電話相談 (10時〜16時)はこちらから 03-3370-4078

セミナーのお申し込み

登進研公式サイトトップ > セミナーのご案内 > 不登校はなぜ“治る”のか Part1

セミナーのご案内

不登校はなぜ“治る”のか Part1


2014年12月7日に開催された登進研バックアップセミナー91の第1部の内容をまとめました。

講師:斎藤 環(筑波大学教授)


 そもそも私自身はひきこもりが専門ですので、不登校をテーマとした講演でお話をする機会は、あまりないことです。それはなぜかと言いますと、私はかつて筑波大学大学院で学び、医学博士号を取得したわけですが、そのときの恩師は稲村博先生でした。稲村先生は、不登校に長くかかわっている方には忘れがたい名前だと思います。

 1988年に朝日新聞の夕刊のトップ記事として、「登校拒否は早期に治療しないと無気力症となり30代まで尾をひく」という、非常に乱暴な予言めいた見解が掲載されました。いま、お子さんの不登校で悩んでいる親御さんの不安をかき立てるようなとんでもない記事だったわけです。当然のことながらネガティブな大反響が巻き起こり、稲村先生は学界からもバッシングされ、事実上の追放処分になってしまいます。

 戸塚ヨットスクール事件が起こったのは1983年ですが、この事件がきっかけとなり、不登校が世の中に広く知れ渡るようになります。つまり、戸塚ヨットスクールは不登校や家庭内暴力を矯正する施設であることがわかり、話題になったわけです。ほぼ同時期に東京シューレをはじめとするフリースクール運動が勃興してきて、ちょうど不登校の世界におけるタカ派対ハト派のような対立構造が生まれていました。

 そうした状況のなかでの爆弾発言ですから、蜂の巣をつついたような騒ぎになるのは当然のことですが、残念ながら私の恩師は空気を読めない方だったので、そのあとも平然と何も恥ずることがないという感じでした。われながらヤバいと思いながら成り行きを見守った経緯があります。以来、私には「あの稲村の弟子」というレッテルがずっとついて回り、現在に至っています。少なくとも不登校界隈では、そう呼ばれていることをご承知おきください。

再登校をめぐる不毛な議論の時代

 私自身は、当時の不登校におけるタカ派対ハト派の対立は、まったく不毛だったと考えています。なぜかと言えば、この対立は再登校をめぐる対立であり、再登校させるべきか否かという不毛な議論だったからです。当然のことですが、「させるべき」も間違いだし、「させないべき」も間違いです。

 ところが当時の議論の構図は、「させるべき」と「させないべき」の対立がほとんどで、その中間がありませんでした。そこで起こったことは、不登校問題のイデオロギー化です。つまり、政治的な闘争の道具にされてしまったために、不登校のような非社会的問題に対応するスキルが蓄積されなかったのです。これは私の実感ですが、物事は何でも政治化されてしまうと対応するスキルが蓄積されなくなってしまいます。不毛な議論と申し上げているのは、その政治的な問題によって、まさに不登校の世界に空白期間をもたらしたと思っているからです。

 ただ、それは不毛な議論でしたが無意味ではなかったと思います。なぜなら、80年代半ばまでは不登校の子どもたちは強制的な入院処遇の対象でした。私はタッチの差で関与しておりませんが、当時は恐ろしいことに不登校になると同意入院という制度があり、親と医者が同意すれば子どもを自由に入院させることができたわけです。それによって、不登校の子どもたちが大人向けの精神科病棟に入院させられ、そこから登校させられていました。強制収容所もかくやという状況が80年代半ばまで続いていましたが、87年に精神保健福祉法が改正され、同意入院ができなくなりました。それは大変よかったと思います。

結果オーライというスタンス

 その後、入院処遇が禁止されてからは、不登校に関してハト派的な考え方が全盛の時代を迎えます。その流れで、2016年に文科省が全国の学校に「登校刺激の禁止」という文言の入ったガイドラインを通達しました。それはまさにハト派的な主張で、それ自体は悪くはないわけですが、ガイドラインを詳しく読むと「不適切な登校刺激の禁止」と書いてありました。ところが、この「不適切な」が捨象され、登校刺激のすべてが悪という受け止められ方をされてしまったわけです。その結果、どういう弊害が起こったかというと、学校によっては、「要するに不登校の子にはかかわるなということでしょう」と拡大解釈されてしまったのです。

 これは政治化による弊害だと思います。政治化しすぎると言葉にこだわりすぎて、本質を見失ってしまいがちです。何も考えずに「登校刺激はダメらしいよ」という規範ができてしまうわけです。「うつ病の人には『頑張って』と言ってはいけない」といった間違ったアドバイスがありますが、ちょうどそれと似たようなドグマが広がったりします。

 私は不登校問題については、そうしたドグマはいっさい信用しないようにしています。これはダメということになっているけど、本当だろうかと疑ってみる。あるいは、こうすべきといわれているけど、本当だろうかと疑ってみることが大切です。逆に言えば結果オーライの考え方をします。よい結果につながるのであれば、途中の対応については、細かいところにこだわらないスタンスをとっています。

 ただし、戸塚ヨットスクールのような暴力的な対応は認められません。暴力的な処遇を受けたお子さんがたまたま再登校に成功したりすると、成功バイアスが働いて、「私はあのとき暴力を振るってくれた先生のおかげで立ち直りました」といった間違った体験談を語ったりします。体験談が常に正しいとは限りませんので、私は体験談もあまり信用しません。当事者が言っていることも、本当だろうかと疑ってみる必要があるかと思います。

 このように私のスタンスは、基本的に治療のスキル、技術、技法を重要視しています。政治的なことはどうでもいいと考えています。政治的にどうであろうと、とにかくよい方向に導く技術はどうあるべきかということを常に考えていますので、この点については稲村先生とは距離があることをご理解いただきたいと思います。

不登校は病名や診断名ではなく「状態像」

 先ほどの稲村先生の「不登校は早期に治療しないと無気力症となる」という主張は1割は当たっていました。ただ、提示の仕方がまずかった。私なら「不登校経験者の1割強は長期に及ぶひきこもり状態になるおそれがある」という言い方をします。これは事実です。それを物語るデータが複数あります。そのひとつが2001年に文科省が発表した2万6000例を対象とした不登校の追跡調査です。不登校の1割強はひきこもり状態になる可能性があることを一応知っておいていただきたいと思います。

 不登校とひきこもりは関係がないという言説もありますが、それはウソです。それは統計が証明しています。それに加えて、不登校はひきこもりよりマシであるような価値判断が入り込んでいることも問題です。どちらも非社会的な「問題行動」という点では変わりません。ただ、不登校のほうが若年層に起こりやすく、期間も短いとい う意味では対応方法もあり、社会資源も多いというメリットはあります。

 不登校は病名や診断名でもなく、ひとつの状態像です。ただし、「不登校は病気ではない」は正しいかというとそうではなく、「不登校と病気は関係がありません」が正しい言い方になります。関係がないからこそ、「病気の不登校」と「病気ではない不登校」が存在するわけです。不登校と病気はカテゴリーが違うわけですが、カテゴリーが重なるところには「病気の不登校」もあり、そうした病気を含んだ不登校に関しては治療的支援が有効であるということです。これが私が今日、話したかった第一の主張です。

再登校は不登校の唯一の解決ではない

 歴史的に見て、文科省の通達でひとつよかったのは、1992年に『登校拒否(不登校)問題について――児童生徒の「心の居場所」づくりを目指して』というまとめのなかで、「登校拒否(不登校)はどの子にも起こりうるものである」とデータに基づかずに明言したことです。これは非常に勇気を必要とする通達だったと思いますが、それまで登校拒否(不登校)が特定の子どもに起こる現象であるとされ、学校に行かない、行けない子ども本人の性格傾向などに何らかの問題があるという認識を大きく転換するものでした。

 さらに、1992年には適応指導教室が設置され、2001年にはスクールカウンセラーが配置されるようになりました。こうして新しい社会資源が90年代以降に導入され、学校に行けなくても、勉強をしたり、社会性を身につける場所が整えられ、オルタナティブな環境が増えたという点では非常に評価できると思います。これからお子さんの不登校に向き合う際には、地域でどんな社会資源を活用できるかという情報は必須ですので、ぜひ収集しておくことをお勧めしておきたいと思います。

 2001年に文科省は「不登校問題に関する調査研究協力者会議」を発足しました。私もそのメンバーのひとりでしたが、その場で私が提案した「登校刺激が絶対禁忌のようになっているため、少し言い方を緩めてください」という意見が通り、「登校刺激の禁止」に関しては幾分緩和されたかと思います。

 ただ、残念ながら、不登校という半世紀もの歴史をもつ問題に関して、しっかりした対応方針がいまだに共有されていないという現実があります。そこには政治的な混迷を経てきたことも影響しているかもしれませんし、もうひとつは文科省の基本方針が再登校にあることも関係しているかもしれません。この方針は行き過ぎであり、再登校のみが不登校の唯一の解決のように主張するのはいかがなものかと疑問を感じざるを得ません。

思春期の状態像の把握には慎重な観察と診断が必要

 不登校に関する本にはどんなことが書いてあるかというと、ものすごく細かい不登校のタイプ別分類が載っていたりしますが、はっきり言って、これらは役に立ちません。なぜならば、不登校のお子さんの状態像は、どんどん変わるからです。しかも、こちらのかかわり方が変われば状態像は変わります。このように文脈に依存して状況が変わるものに対しては診断ができません。

 発達障害がその際たるもので、ある場面でのふるまいだけを見て診断するのはだいたい間違いです。複数の場面、複数の文脈において行動を観察して、どのくらいの間、安定して固定化されたものかを調べないと診断はできないのです。特に思春期のお子さんの状態像はすごく流動的ですから、慎重な観察と時間をかけた診断が必要になりますが、不安にかられた親御さんがこうした本を読むと、「うちの子はこのタイプだ」と早合点しがちで、それならこんな対応をしなければと錯覚しがちです。そういう危険性を避けるためにも、診断と治療は専門家に委ねていただきたいと思います。

 必要な不登校の分類は次の3つで十分だと思います。これは山登敬之さんという方が行った分類です。


不登校の分類


① 身体的疾患をもつもの
② 精神病(発達障害を含む)が疑われるもの
③ 神経症様症状を呈するもの


 神経症様症状というのは、学校に行きたいけど行けない葛藤型不登校のことです。私たちが不登校といったときに真っ先に連想するタイプの不登校です。残り2つはあり得ますが、病気がはっきりしている場合は、その治療を優先するのが当然ですから、身体疾患があったら内科に、精神疾患があったら小児精神科などに通っていただき、原疾患の治療をしていだくことが適切な対応になります。

 くり返しますが、不登校とは状態像であり、診断名ではありません。そのカテゴリーのなかにさらに小さい集合として「病気の不登校」と「病気ではない不登校」があることをイメージしていただきたいと思います。不登校全体の性質がこうであると決めつけることができるほど、単純な問題ではありません。

不登校への対応は「正常化バイアス」を基本に

 まず、不登校のお子さんと向き合うときは、できるだけ「正常化バイアス」で見ていただきたい。正常化バイアスとは、物事を正常とか健康的な方向に近づけて見る見方のことです。

 これはよい場合と悪い場合がありますが、たとえば、がんなど深刻な病気と向き合うときは命にかかわる問題ですから、わずかな兆候を見逃さない視点で見る必要があります。幸い不登校は命にかかわらないので、むしろ正常化バイアスの視点、つまり、この子の行動は健康な反応として理解できるという前提で向き合うことを出発点にしていただきたいと思います。
 言い換えると、「こんな変なことをするのは病気だからに違いない」と決めつける前に、そうした行動に走る原因や理由があるのではないかという視点から入っていただきたいのです。

 そうした視点で見ていくなかで、それだけでは説明しきれない、あるいは正常化バイアスのもとに対応したけれどなかなか状況が改善しない場合には、ひょっとしたら病気が関係しているかもしれないというふうに、徐々に対応の幅を広げていただきたいと思います。

 次に私が言いたいのは、不登校に関しては早期発見・早期治療は間違った対応だということです。早期発見・早期治療という対応は医原性の疾患に結びつくことが少なくありません。医原性の病気とは、病気と思い込んで病院に連れて行ったら、本当に病気と診断されてしまったことで、もともと病気ではなかったのに病気になってしまうことです。こうしたことが頻繁に起こるのが思春期、青年期の特徴です。

 病院や医者といえども万能ではありません。現在の日本の精神医療のお寒い現状では、どこに専門家がいるかすらわからない。日本児童青年精神医学会という学会がありますが、そこに登録している専門医は全国でわずか200人だけです。しかも、これは国家資格ではないので、彼らが本当に高い専門性をもっているかどうかについては、学会の評価に頼るしかないところに限界があります。逆に力のある臨床の専門医は、それを表に出しません。看板を出すと患者が殺到するからです。ラーメンの人気店の味が落ちるのと同じように、患者が殺到すると臨床医の腕が下がってしまうのです。そのため、ひっそりと他病院からの紹介だけを受けてやっているのが実情です。

 日本の大学には、まだ児童青年期精神医学という専門講座が数えるほどしか存在しません。そうした専門医が少ないことから、どこに行けば不登校のお子さんの相談ができるのか、わからない状況ですから、手探りで専門家を見つけ出すしかないのが現状でしょう。ただ、東京や横浜などは医療資源も多く、もう少し選択肢はあるかもしれませんが、地方に至っては途端に選択肢がなくなってしまう現実があります。

家族相談を受けてくれる医療機関を探そう

 図1のフローチャートの説明ですが、右上に「精神・身体症状の有無を確認する」とあります。さらに、精神・身体症状がある場合、「まず家族のみ医師に相談」とあります。これには2つの理由があります。

 ひとつは、家族相談を受けてくれるところを探そうという意味です。つまり、初診の際、「ぜひ、次回は本人を連れてきてください」と言わない医療機関を見つけてください。なぜなら、家族相談を受けるところは、思春期の子どもたちをしっかり診断してくれるところが多いという個人的な経験が背景にあります。

 長期間、家族だけの相談をしなければいけないケースの多くは、子どもに関する相談です。その家族相談を受けているかどうかで、子どものケースを扱い慣れているかどうかがわかります。逆に家族相談をいっさい受けない医療機関では、不登校やひきこもりの相談はできません。経験が蓄積されないためです。


図1
図1


 もうひとつの理由は、病院にかかることで子どもが傷つけられないためです。病院によっては、特に不登校やひきこもりの子どもを診慣れていない医師は、子どもに説教をしたりするわけです。あるいは、いきなり発達障害のレッテルを貼ったり…。そうした出合い頭の暴言によって傷つけられた子どもは、二通りの反応を示します。自分は本当に病気なんだと思い込み自己評価がガタ落ちするか、もうひとつは、こんなひどいことを言う人には二度と会いたくないということで医者全体に対する不信感が高まるか、このいずれかの反応だと思います。

 治療環境が常につくれない医療機関に遭遇してしまったら不幸でしかありませんので、まずは親御さんが偵察に行き、本当に信頼できるかどうか、もうひとつは、本当にいますぐ治療的な介入が必要かどうかという判断を専門家にしてもらってください。わが子が不登校になった場合、親御さんは「全世界のなかで私の子どもだけが、どうして?」という感じになりやすいです。そういう思いにかられた親御さんは、罪悪感とパニックによって冷静な判断力を失いがちです。その場合、客観的に評価してもらう立場の人が必要なので専門家の意見はあったほうがいいと思います。

 ただ、その専門家がどんな人かは行く前にはわからないことが多いので、実際に会ってみて確認して、信頼できる人だと思ったところで、必要に応じてお子さんを連れていけばいいわけです。この最初の段階がとても重要で、ここでつまずいたおかげで、こじれてしまった人を何人か知っていますので、そうした不幸なことにならないためにも、最初の段階には十分に手間暇をかけていただきたいと思います。

健康と病気の境目に位置する不登校問題

 不登校問題のほとんどは、病気と健康の境目くらいに位置し、扱い方によってはどちらにも転ぶという可能性を秘めた問題だと思っています。そのため、治療的な支援によってうまくいくこともあるし、治療とは無関係な人が、それこそ人結び的な力を発揮してかかわった場合でもうまくいったりすることがあるのは、病気と健康の両方の側面をもっているからです。

 「じゃあ医者なんかいらないんじゃないか」と言い切ってしまうと問題なのは、何か別の要素が潜んでいる場合を考えると、鑑別診断など治療的な対応が必要な場合もあるからです。言わば保険をかける意味で医者とのつながりはあったほうがいいかもしれませんが、立ち直りを促すスキルについては、むしろ医者よりも不登校の子どもたちと多く接してきた専門家のほうが上かもしれません。

 医者だから不登校のことも知っているだろうというのは、大いなる誤解です。医学教育のなかで不登校について学ぶ機会はほとんどないし、実習でもよほど運よく青年期を対象とする専門機関に行かないかぎりは、いっさい不登校やひきこもりに触れることなく精神科医になるわけです。そのため、不登校に関する知識が欠落した専門家もいることを強調せざるを得ません。

まず外的な原因の有無を確認する

 再度、図1をご覧ください。精神・身体症状がないのに学校に行けない場合、どうすればいいのか。これがいちばん多い不登校のパターンだと思いますが、まず、親御さんは担任の教師や養護教諭、スクールカウンセラーなどに相談して、外的な原因の有無をしっかり確認していただきたい。外的な要因としていちばん多いのはいじめや、あってはならないことですが教師によるハラスメントなどです。最近、『スクールセクハラ』という本が出て、いかに学校が性犯罪の舞台になっているかが告発されています。それも含めて、さまざまなハラスメントが学校では起こっています。

 セクハラを受けても本人はなかなか親御さんには言えませんので、原因を聞かれても素直に答えられないはずです。こうした、被害を受けても明らかにできない弱味につけこむ卑劣な一部の教師が存在することは残念な事実ですが、そうしたことが原因になって不登校になった場合は、本人が「大した原因なんかないよ」と言っているからといって、それを鵜呑みにするのは問題です。つまり、明らかな原因が存在するのに、一所懸命本人のカウンセリングをしたり、薬を処方したり、誤った治療的支援がなされてしまう可能性があるからです。 

 もともと思春期のお子さんが不登校の理由を問われて、最初から素直に答えるなんて思うほうがどうかしているわけで、それはみなさんがつい最近まで思春期だったことを思い出していただき、当事者の気持ちになって考えてみればわかることだと思います。思春期のお子さんは半分大人ですから、親に心配をかけまいとして、本当のことを言わないということがあり得るわけです。質問に答えなかったから「原因はなかったんだね」と結論を出すのは早計です。

 どちらにしても親子の信頼関係が成立していないときに本音を言うことはありませんので、思春期の治療・支援に関しては、信頼関係を築けるか否かという点が生命線といっても過言ではないでしょう。たとえ親御さんといえども信頼されているとは限りませんから、信頼関係ができあがっていると感じられない場合は、まず、信頼関係の構築からスタートする必要があると思います。そこで初めて本当のことを話してくれるかもしれません。

 原因のある不登校の解決は、当然のことながら治療ではなく、原因を除去することにあります。その当たり前の前提を抜きにして、「不登校は子ども自身の問題」として結論を出すのは早すぎるわけですが、私が見るかぎりでは、そうしたケースがたくさん起こっているように思います。いじめやハラスメントという本当の原因について子ども自身が話さないのをいいことに、不登校という病理の問題にすり替えて、表向きの解決を図ろうとしていることがしばしば起こっているように思います。

 そのため、原因のある不登校なのか否かについては、時間をかけて見極めていただきたいと思います。先ほど、早期発見・早期治療を否定したのは、こうした理由からでもあり、早い段階でわかったつもりになってしまうことが危険だからです。状態像はどんどん変わるし、原因も1カ月経過してからわかることもあります。つまり、不登校への対応は、基本的に手探りから始まることをおわかりいただければと思います。

目につく、いじめ加害者の免責と被害者批判

 特にいじめがあった場合、不登校の原因の究明はしっかりやる必要がありますが、いじめに関して、いまだに目につくのは加害者の免責と被害者批判です。ときに親御さんですら、「あなたにも原因があったんじゃないの?」という言葉で、被害者批判に加担することがあります。親御さんが被害者であるわが子を批判すると、一生信頼されなくなると思ってください。いじめの加害者と同様に恨まれると思ったほうがいいでしょう。

 そうした場合、お子さんと信頼関係を取り戻そうと思ったら、謝罪をくり返すしかありませんが、それができる度量があるかが問われていると思ったほうがいいでしょう。いじめの解決には、そうした問題も含まれます。つまり、間違った初期対応をしてしまったことに対する十分な謝罪があったかどうか。それもいじめ対応の根幹をなすことです。

 当然、加害者に対しても一定の処罰を下してもらわざるを得ません。これはあきらめる必要はありません。学校側と粘り強く徹底的に、たとえモンスターと言われようと交渉しつづけて、一定の成果を上げることができたかどうかが問われています。子どもはちゃんと見ていますから、親御さんが大人の事情で早々とあきらめてしまうと、世間に屈したんだという印象が残ってしまいます。

 いじめ経験が人間不信につながりやすいのは、交渉の早い段階で大人のふるまいを見せつけられてしまうことが大きく影響するので、こうした問題を抱えた人は、かなり長期間、社会適応上の問題を抱えると思っていただいたほうがいいと思います。最近、イギリスの研究で、11歳までにいじめ被害を受けたお子さんは、将来40歳、50歳になってからうつ病になりやすい、自殺しやすい、被害妄想をもちやすいことが7771名を対象にした追跡調査で明らかになりました。いじめによる後遺症があることが証明された事実は重いですから、「そんな昔のことぐらいで…」と紋切り型のコメントをする前に、この現実を直視してほしいと思います。 

※この続きは、「Part.2」 で読むことができます。

ページの先頭へ