第26回 第34回 第39回 第40回
第44回 第53回 第54回
第55回(第1部)
第55回(第2部)
第57回 第58回 第59回 第61回
第62回 第63回(第1部) 第63回(第2部)
2023年度 2022年度 2021年度 2020年度 2019年度 2018年度 2017年度 2016年度 2015年度 2014年度 2013年度 2012年度 2011年度 2010年度 2009年度 2008年度 2007年度 2006年度 2005年度 2004年度 2003年度 2002年度 2001年度 2000年度 1999年度 1998年度 1997年度 1996年度 1995年度 2019年度 2018年度 2017年度 2016年度 2015年度 2014年度 2013年度 2012年度 2011年度 2010年度 2009年度 2008年度 2007年度 2006年度 2005年度 2004年度 2003年度 2002年度 2001年度 2000年度 1999年度 1998年度 1997年度 1996年度 1995年度
登進研バックアップセミナー92・講演内容
「学校に行く」という常識をどう超えるか Part.2
2015年1月25日に開催された登進研バックアップセミナー93「不登校―『学校に行く』という常識をどう超えるか」の内容をまとめました。
ゲスト:不登校を経験した3人の若者
講 師:海野 千細(八王子市教育委員会学校教育部教育支援課相談担当主任)
助言者:荒井 裕司(登進研代表)
司 会:齊藤真沙美(東京女子体育大学・東京女子体育短期大学講師)
※ゲストの方々のお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。
講 師:海野 千細(八王子市教育委員会学校教育部教育支援課相談担当主任)
助言者:荒井 裕司(登進研代表)
司 会:齊藤真沙美(東京女子体育大学・東京女子体育短期大学講師)
※ゲストの方々のお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。
高校受験案内の本で見つけた自分にぴったりの学校
齊藤 | 不登校状態から動き出すきっかけになったことがあれば教えてください。 |
---|---|
安藤 | 中等部から高等部に上がれないことはすでにわかっていたので、母がスクールカウンセラーと相談して、高校はどうするか、どんな高校がいいのかなど、ある程度固めていたのではないかと思います。通信制サポート校や単位制高校などが候補にあがっていて、そのなかでサポート校にターゲットをしぼり、3校くらい見学に行くことを母が決めていました。 サポート校は、小中学校時代に不登校を経験した同じような境遇の人たちが入学してくる学校なので、負い目を感じることもないし、ヘンな目で見られることもないかなと思って、そういう学校なら入学してもいいかなと思ったことが動き出すきっかけになったように思います。 |
高見 | 内部進学をしないで、別の高校に行きたいと宣言したのは中2の不登校のときです。中2の1月から3月まで3カ月間、学校に行かなかったのですが、その間の教材や資料、テスト問題などを手渡すために学校に呼び出されて母と2人で行った際、「このままだと内部進学は難しくなる」と言われました。そのひと言で何かが吹っ切れ、母に別の高校に行きたいと告げました。すると母は、「別の高校に行くにしても、とにかくいまの中学校を卒業するしかないから、残りの1年間は学校には行きなさい」と言ってくれました。 その後、母が高校受験案内の本を図書館から借りてきてくれて、そこに載っていた学校の広告の「きみが校長先生だったら、きっとこんな学校にするだろう」というコピーを見た瞬間、「なんだこれ! どんな学校なんだろう?」と興味がわいたことが動き出すきっかけになりました。その意味では、外からの働きかけやアドバイスによってきっかけをつかんだのではなく、自分の感覚にピッタリ合う学校の広告を見たことで、運命的なきっかけをつかんだようなものです。あの広告を見た瞬間、「キターッ!」という感じでした(笑)。 |
井手 | 母は、私が中学校に入っても行けなかったら適応指導教室をすすめようと思っていたらしく、「こういうところがあるけどどう?」と言われて見学に行き、結局、中2の6月から中学校卒業まで通うことになりました。その適応指導教室には、私と同じように不登校状態の中学生が7〜8人通っていました。適応指導教室という存在そのものをまったく知らず、不登校から脱け出すには再登校するしか道はないと思っていたので、そんな場所があるのかと、かなりショックを受けました。 通うといっても、最初の頃は人と会うことに抵抗があったし、人と一緒に食事をすることも苦手だったので、行ったり行かなかったりでしたが、それを受け入れてくれる環境でした。当初は居心地が悪かったのですが、月2回、体育館でスポーツをやったりする日があって、それなら行けそうだと思って行ってみたら楽しくて。初めはすみっこでぽつんと座っていましたが、みんなが卓球やバスケでひとしきり遊んだあと自然と輪になって座り、学校での嫌なことや親の嫌なところなどを話しはじめるのを見て、いいなと思いました。そのなかに同い年の子がいて、とても自然な感じで輪のなかに入れてもらって、自分のことをぽろっぽろっとしゃべっているうちに仲良くなり、その子とは、いまでも仲良くしています。 それまで母と一対一の世界にいたので、「ほかにも学校に行けない子がいるんだ」「そういう子たちが普通にいて、こういうところに通って遊んだりしているんだ」と知ったことが大きなきっかけになったと思います。 |
親に言われたら反発するけど、友だちなら素直に頑張るぞ!と思える
齊藤 | 中学校卒業や転校という“節目”を迎えたときはどんな気持ちでしたか? 進路については、どんな不安や希望を感じていましたか? |
---|---|
高見 | 中2の最初の不登校の段階で、この学校で内部進学して高校に行くのはつらいと感じていました。自分が自分でなくなってしまう気がして、それがずっと怖くて、このまま高校に行ったら耐えられなくて、そのうち自殺するんじゃないか、社会に出られないんじゃないかと思っていました。だから、自分としては内部進学という選択肢は、まったくありませんでした。 中学のときから、高校進学と同時に本当の自分を出して180度変わりたいという思いが強かったので、先ほどお話しした広告コピーの学校ならありのままの自分を受け入れてくれる、ここなら生まれ変われると思っていました。 |
井手 | 中2の6月から適応指導教室に通いはじめましたが、中3の夏までまったく勉強はしていません。頭のどこかで「高校のこと考えなきゃ」とずっと思っていましたが、高校に行ける気がしないし、このまま学校に行かないでどうなっちゃうんだろうという不安もあり、そこから目を背けたい気持ちもありました。 担任の先生がプリントなどを持ってきてくれるのですが、学校のプリント、とくに手書きのものは拒否感があり、触りたくありませんでした。「これを先生が書いたんだ」「これでみんな勉強してるんだ」と思うと、みんなが教室で勉強している姿が頭に浮かんできて、学校の脅威そのものという感じでした。 それに、勉強しようと思っても習慣がないから苦痛で、じっと座っていられないというか……。でも、漢検や英検の勉強は好きでした。読書が好きだから漢字は得意で、中学のときに漢検の準2級を取ったのですが、準2級というと高校レベルくらいで、学校でも取った人がいないので自信につながりました。検定が好きだったのは、学校に関係のない勉強だからだと思います。学校からもらったプリントは気持ちが悪くて嫌なのに、検定のテキストは平気でした。 中3の秋頃になって、適応指導教室の友だちが「私立に行きたい」と頑張っている姿に刺激を受けたり、後輩たちが私にも「頑張ってね!」と応援してくれたので、その子たちに自分が頑張っている姿を見せたいという妙な責任感もありました。親に「頑張れ」と言われたら反発したり、負担に感じたと思いますが、友だちや後輩に言われると、素直に「頑張るぞ」と思えました。子ども同士が支え合い、刺激し合って、それがいい方向に作用していた気がします。そういう環境が刺激になり、自分のなかに自然なかたちで高校への意欲が生まれてきたのかもしれません。 |
安藤 | 中高一貫校で中2になる前に、学校から留年して中1の勉強をやり直すか、そのまま中2に進級するか決めてほしいと言われました。留年する気はないし、かといって中2に進級しても勉強についていけないのは目に見えているので、いまの学校以外の道を探すしかないことは明らかでした。 中学卒業後どこにも所属していない状態になるのは避けたかったので、とりあえずどこかに行ければと思っていましたが、母としては、いろいろ調べた結果、進路先はサポート校ということで固まっていたようです。 私自身も学校然としたものが嫌になっていて、全日制普通高校のような学校には行きたくないという気持ちが強く、とりあえずサポート校に行けば不登校だった生徒が多いから学校のなかで浮くこともないし、人の目を気にすることもないだろうと漠然と考えていました。 |
行きたい学校の情報を徹底的に収集し、両親を説得
齊藤 | 進路決定までの経緯と、進路選択で決め手になったことを教えてください。 |
---|---|
井手 | 母が学校から進路の資料をもらってきたり、高校選びの分厚い本を買ってきてくれて、サポート校や通信制高校など、不登校の子が進学できる学校がいろいろあることを教えてくれました。私はその頃、大学に行きたい気持ちが強くなっていて、高卒程度認定試験に自力で受かるのは無理だと思っていたので、私でも通えるような普通の高校に行く方向に意識が向いていました。 高校選びについては中学校の先生もすごく協力的だったのですが、どうしても学校の支援を受ける気にはなれませんでした。その先生が嫌いなわけではないのですが、やはり「学校の人」というだけで受け入れられませんでした。 かつて私をいじめていたのがギャルっぽい子たちだったので、そのせいかもしれませんが、そういう子がいない学校がいいなと思って、最初は私立を考えていました。ところが、母が電話で問い合わせると不登校ということで軒並み断られてしまったのです。 そこで、通える範囲の公立校で自分の中学校から誰も行かない高校を探してもらって、母と一緒に3〜4校ほど見学に行きました。そのうちの1校で「ずっと学校行ってないんですけど」と話したら、「大丈夫だよ。これから頑張ればいいんだから」と言われてうれしかったです。しかも、その高校は不登校入試の枠があって、内申点は不問、面接で判断してくれると聞き、雰囲気も自分に合っていたので、帰り道にはもうここに行くと決めていました。母も「ここがいいんじゃない」と言っていました。 昔の自分は、何をしたいのか、どこに行きたいのか、考えること自体できませんでした。そんな自分が、自分で進路を決めたことで成長を実感すると同時に、後々の自信につながったかなと思っています。 |
安藤 | 高校選びの決め手になったのは、中2〜3のときの担任のアドバイスによるところが大きいと思います。その先生が、サポート校を選ぶときのポイントとして、それなりに生徒数が多いほうがいろいろな人と出会える可能性が高く、その後の人生にも役立つだろうと言ってくれたのです。 正直、私にはとくにこだわりはなかったのですが、確かに人との出会いは大切だから、その可能性が高い環境のほうがいいんじゃないかと思って、いちばん生徒数の多いサポート校を選びました。その学校で、同じ不登校体験をしていても、いろいろ考え方の違う人や面白い趣味をもっている人に出会うことができたので、担任の先生のアドバイスは正しかったと思っています。 |
高見 | 先ほどお話ししたように、中3の11月頃、高校受験案内の本で偶然見つけた学校が気になり、ホームページなども徹底的に調べて、母にはまだ内緒だったので、母に何を聞かれても即答できるように情報収集していました。通信制サポート校という学校があることは、このとき初めて知りました。 母は「通信制高校なんてあり得ない」と考えていて、その考えをしぶとく譲らず、「内部進学はあきらめて、地元の県立○○高校に行きなさい」と言いはじめました。そこは進学重視の学校なので絶対に行きたくなかったのですが、仕方なく一度だけ説明会につき合いました。学校の話を聞いたうえで反対すれば説得力があると思ったからです。 説明会に行くと、「毎日、朝と下校時にテストがある」「習熟度別のクラス編成」「テスト結果は成績順に貼り出す」などウンザリする話ばかり。個人面談で、母が「この子は不登校ですが大丈夫ですか?」と聞くと、「正直、厳しいと思いますが、変わろうという気持ちがあれば大丈夫かと……」という微妙な対応で、不登校に対しては私立中学と同じ空気を感じました。これは無理と判断し、帰る途中で母に「あの高校は絶対に嫌だ」と言いました。 このあと、例のサポート校のホームページを母に見せて、「私は絶対にこの学校に行きたい。この学校でなければ行かない」と主張しました。ところが、母も自分で調べたようで、「結局、通信制のサポート校でしょ?」と相手にしてくれません。その後も母を説得するために学校説明会に連れて行ったり、学費の問題を持ち出して暗にサポート校をあきらめるよう迫る母に「それはわかるけど、私はあのサポート校以外なら高校に行かないから」と宣言して、なんとか納得してもらいました。さらに、気持ちよくOKを出さなかった父を説得するために両親を説明会に連れて行き、学園長や校長先生と面談してもらい、ようやく安心したのか入学することを了解してもらいました。そのとき初めて、不登校だったことを含めて私という人間を認めてくれたのかなと思いました。 |
進路に向けて子どもの心の状態をいかに整えるか
齊藤 | 不登校の子どもにとって高校進学は大きなハードルになることがあります。3人の進路決定に至るまでの経緯について、海野先生、荒井先生はどのようなことをお感じになりましたか? |
---|---|
海野 | 3人とも共通して、外からの働きかけや刺激が入ったときに、それをうまく活用できる準備が整っていたんだなと感じました。たとえば井手さんは、あれだけ生きるだの死ぬだのとお母さんとバトルをくり返していたのに、いざ進路選びの段階になると、お母さんが学校からもらってきた資料に始まり、一緒に学校めぐりをしたりと、お母さんと一緒に考えられる状態になっていますよね。 安藤さんの場合も、お母さんが進路に関していろいろセットしてくれていますよね。みなさんのなかには、進路相談や学校説明会などをいくらセットしてもうちの子は全部はねのけてしまうんですという状況の方もたくさんいらっしゃると思います。ところが、安藤さんの場合は、お母さんのアドバイスや説明会への誘い、さらには中学校2〜3年の担任の先生の助言も素直に受け入れて活用できる準備ができていたのではないかと思います。 高見さんにしても、世間体ばかり気にして高見さんの苦しさをまったくわかってくれないお母さんでしたが、そのお母さんが図書館から借りてきてくれた高校受験案内を見たとき、心に響くコピーが目に飛び込んでくる。それは高見さんにとって、まさに運命的な出会いになるわけですが、そこでも高見さんにそうした“出会い”を受け入れる準備が整っていたと考えられます。 進路選択に関して、親御さんがどんな情報をどう提供するかという問題はあるかもしれませんが、それ以前に子どもの心の状態をいかに整えるか、あるいは情報収集などを含めてどう準備を整えるかというところにひとつのポイントがあるような気がしました。 |
荒井 | 3人の体験談を聞いて、ジーンとくる場面が何度もありました。まず、高見さんが世間体を気にするお母さんに負けず、自分で進路情報を収集して、自分が行きたい学校を見つけ、ご両親を説得するに至る話はまさにドラマですね。ネコをかぶっていた小中学校時代から生まれ変わって、本当の自分で高校デビューしたいという強い思いが、自分で見つけた学校への進学につながっていったような気がします。 安藤さんは自分で“燃え尽き症候群”だと言っていましたが、親御さんは混乱しながらも、この子にエネルギーを充電する時間を与えようと思って対応してくれていたように思います。彼の「学校に行かなくて済むようになって、逆にスッキリした」という言葉が印象的でしたが、不登校体験者からはなかなか出てこない言葉です。不登校を機に過去の自分といったん決着をつけることで、新たな進路へと向かうことができたのだろうと思います。 井手さんがお母さんとの大バトルの最中に言われたショックな言葉が「帰ってきてよ!」でしたが、これは「娘がとんでもない世界に行っちゃった」と思って混乱した親御さんの気持ちを象徴している言葉だと思います。そんなお母さんの気持ちも考えながら小中学校時代に頑張ったけれど、また行けなくなって、お母さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。でも、少し元気が戻ってきたときに、少しでもお母さんが喜んでくれることをやろう、役立つことをやろうと、スーパーのポイント集めをするところなんか健気ですよね。これが子どもの正直な親に対する思いなんだろうと思います。 それぞれ状況は異なりますが、3人とも自分のこと、親御さんのこと、家族のことを冷静に見つめながら、自分にもっともふさわしい進路を選択している気がします。また、3人のお母さん方がなんらかのかたちでカウンセラーなど専門家との相談の機会をもっています。それによって、当初は本心からではないかもしれませんが、「学校に行きなさいと言っちゃいけないんだ」と思ってかかわっていこうと対応を変えていったことが、子どもの心の安定につながり、進路へのエネルギーにつながっていったのだと思います。 |
「逃げたっていいよ 戻ってくるなら」という歌詞に支えられて
齊藤 | 不登校中に心の支えやよりどころになったことはありますか? |
---|---|
高見 | 私の心の支えになっていたのは音楽です。不登校中もメールをくれた友だちが関ジャニ∞が大好きだった影響もあり、テレビの音楽番組で「急☆上☆Show!!」という曲を聴いていて、曲中のセリフに「ひとりじゃないよ」とメンバーのひとりがつぶやく場面がありました。その頃、私はまったく笑わない子になっていたので、なんの感情もなく観ていましたが、曲が終わったあと「ひとりじゃないよ」というセリフが心に響いて、曲自体が前向きなこともあって笑顔になっている自分がいました。自分はずっとひとりぼっちだと思い込んでいたので、よけいに心に響いたんだと思います。 それ以来、関ジャニ∞を聴くようになり、いちばん救われたのは「ONE」という曲でした。歌詞が自分の気持ちにピッタリでヤバい(笑)。出だしは「冷たい雨に何度も打たれ、疲れ果てても陽はまた昇る」で始まるんですが、夜中に私の進路のことで両親がケンカをしている横で大音量で聴いていたこともありました。そのあとに続く、「気がつけば一人部屋の中、いつも暗闇で全てを塞いだ」もまるで自分のことのようでした。泣きながら何度も聴いて、これからなんとかなるかもしれないと思い始めたりもしていました。 ほかには曽根由希江さんというシンガーソングライターの「キラキラ」という曲のなかに「逃げたっていいよ 戻ってくるなら」という歌詞があります。ちょうど中3のときの不登校前後に聴いたのですが、学校に行こうか迷っているときに、行かなきゃ自分に負けるし、自分に負けるのは嫌だし、でも行ったら自分がつぶれてしまうし、どうしよう……と葛藤していたときに「逃げたっていいよ 戻ってくるなら」という歌詞を聴いたんです。逃げることは負けではないんだな、逃げることも場合によっては必要なんだと思えて、そこから学校に行かなくなったのですが、でも、「戻ってくるなら」という条件がついていたので、じゃあ卒業式には絶対に戻ってこようと自分では決めていました。 |
安藤 | 心の支えというよりは、親やまわりの人たちに過度にかまわれたくなかったので、ある程度ひとりの時間を確保してくれたことがよかったのではないかと思います。母も、無理やり話題をつくって話しかけてくるようなこともなく、ごく自然に対応してくれたので助かりました。 入学したサポート校にも同じような印象をもっていて、あまり登校しない人がたまに学校に来たりしても、「よく来たね〜!」と大げさな対応をするのではなく、自然にクラスに入れる雰囲気がありました。私のように午後からフラッと登校する生徒にも同じように自然な対応で、「朝からずっといました」みたいな感じで授業に入れたのがよかったし、ありがたかったですね。 |
井手 | 私の場合は小5で最初の不登校になったときがいちばんつらくて、本当に死にたい、死にたいと思っていて、実際に何度も自殺を図ったんですが、うまくいかないんです。そんなときは、マンガが好きで月刊誌をよく読んでいたので、来月号の続きを読んでから自殺しても遅くないと思って先延ばしにしたりしていました。つらい気持ちをマンガに支えられていたといえるかもしれません。 適応指導教室に行くようになってからは、いまでもそうですが、そこでの友人関係が何よりの心の支えでした。それまでは人に迷惑をかけているという意識しかなかったのですが、自分のつらい体験などを友人と語り合っていくうちに、自分は友人に支えられているし、自分もきっと友人を支えているんだと初めて思えるようになり、そんな自助グループのような関係が心のよりどころだったと思います。 |
「1日休んでも欠席は続かない」という自信
齊藤 | 不登校を経験して、自分の気持ちや親子関係に変化はありましたか? |
---|---|
井手 | いまも朝起きるのは苦手ですが、マイナスに感じる部分はないと思います。私のまわりにも不登校だったことを後悔している人はひとりもいないし、不登校になって適応指導教室で出会えた人がたくさんいたし、人の気持ちを考えられるようになったこともプラス要素です。 私は大学で心理学を勉強して、以前、不登校のお子さんとかかわるような仕事をしていたのですが、不登校の経験があるからこそ、不登校のお子さんの気持ちをより深く理解してあげることができると思っています。 中学校のときは、息抜きをしないままガス欠になるまで走り続けて、その結果として行けなくなるみたいな感じでしたが、高校に入ってからはそうなる前にサボってコントロールできるようになりました。そこは自分でも成長したなと思っています。中学のときは、「一日休んだらずっと行けなくなる」という不安がありましたが、高校では「一日休んでも欠席は続かない」という自信がついたからだと思います。 国語がずっと好きだったので高校では文芸部に入って、不登校をテーマにした小説を書きました。それが入賞して『文芸埼玉』という文芸誌に載ったときは、ものすごくうれしかった。主人公がいじめられて不登校になるのですが、そのなかで、「学校に行くのも強いかもしれないけど、行かないのも強さだ」「学校に行かないという道を自分で決めたんだ」ということを書いたら、それが認められて……。それは、自分自身の生き方を認められたような気がして本当にうれしかったです。 |
安藤 | 中学生時代に経験すべきことができなかったという部分はありますが、そのマイナス部分は高校と大学で取り戻せたと思っているので、不登校経験がマイナスになったと思うことはありません。 確かに不登校は社会から逸脱している状態ですが、私がこれまで接してきた人たちの9割以上は「昔、不登校だったんだよ」と言っても気に留めることはありません。逆に「不登校で大変な思いをしてきたぶん、人より成長しているところがあるのではないですか」と期待する方向でとらえてくれるケースのほうが多いです。 気持ちの変化としては、自分がこれから何をやるのかも含めて、何事も自分の意思で決めないとダメなんだなと思うようになりました。私は、小学校も私立で、ほとんどのクラスメートが中学受験をするような学校だったので、そういうものだと思ってなんの違和感ももたずに私立中学に入学し、その結果、不登校になってしまいました。ですから、大学受験のときは、入学後にどんなレベルの勉強が待っているかを考えたうえで大学を選びました。そのように、さまざまな節目節目で自分でちゃんと考えて判断しないといけないと思うようになりました。 母は、私が大学に合格したときも中学での不登校が頭にあるらしく、「大丈夫かな」という不安があったようですが、自分としては状況も違うし、進路先も自分で決めたので心配はしていませんでした。不登校を通して、親子でまっとうな議論ができるようになったことも変化のひとつかなと思います。 |
高見 | 私も不登校になったことをいっさい後悔したことはありません。不登校を経験して高校を変えたことによって、出会えた友だちや先生が財産です。高校に入ってからの私の人生は、中学時代とは正反対です。初めて学校って楽しいところなんだと思えるようになり、「行かされている場所」から「行きたい場所」に変わったのは自分のなかで大きかったです。 気持ちの変化としては、何よりも自分の気持ちに素直に生きられるようになったことです。サポート校に入ったときに立てた目標は「自分に素直に生きる」でした。これまでは1000人いたら1000人に好かれたいと思っていたのが、いまは、合わない人は合わないし、嫌われてもいいから自分を通して生きようと思っています。もちろん他人の意見は聞きながら、ネコをかぶるのはやめて、自分のありのままに突っ走ろうと。親に対しても、以前は見放されたくない、嫌われたくないと我慢をしていたことが多かったけど、自分の思っていることをきちんと伝えられるようになったかなと思います。 |
「人生には必要のないことは起こらない」
齊藤 | 最後に、今日のテーマ「『学校に行く』という常識をどう超えるか」にもふれていただきながら、海野先生と荒井先生にまとめをお願います。 |
---|---|
荒井 | あんなに元気で楽しそうに学校に通っていたわが子が、突然行けなくなるということは、親御さんの価値観や将来への夢や希望がひっくり返るような出来事で、ものすごい混乱と葛藤が起こってきます。井手さんのお母さんの「帰ってきて!」という言葉が、まさにそれを象徴しています。 そうした混乱のなかで、お母さん方はカウンセラーなどに相談することで、「不登校というのはそんなにいいことではないかもしれないけど、そんなに悪いことでもなさそうだ」「成長のプロセスの一環なんだ」と考えるようになり、「学校に行かなくてもいいんだよ」と言えるようになってきます。しかし、それでも、「『学校に行く』という常識」は手強く私たちの頭に棲みついています。 私たちは、小さいときから、いい学校に入り、いい大学に進み、いい会社に就職することが幸せの道筋なんだと教えられてきたし、そう思ってきました。不登校はそうしたルートから逸脱することですから、その常識をぶち破ることはなかなか難しい。 行き着くところは、「わが子の幸せってなんだろう」ということではないでしょうか。その問いを突き詰めていくと、必ずしも学校に行くことだけが幸せではなく、わが子が自分らしく自分の人生を歩むなかで、人のために役立つ生き方をすることが、わが子が幸せになる道だと考えられるようになるのかもしれません。そこに至れば、「学校に行く」という常識をも超えられるようになっていくのではないかと思います。 親子の原点は、お母さんのおなかに宿った小さな命にあります。そのときお母さんは、ただ「無事に産まれてきてほしい」との願いだけで、ほかには何も望まなかったのではないでしょうか。そのときの気持ちをもう一度思い出せば、学校に行けなくてもこの子が幸せになりさえすればいい、と肚を据えることができるような気がします。 |
海野 | いまの日本の教育制度のなかで、「学校に行く」という常識を超えることは、本当に難しいと思います。私たちにできることは、せいぜい「学校に行く」という常識とどうつき合っていくか、ということくらいかもしれません。 「超える」というイメージで言うと、不登校だった子どもたちが、再出発に向けて、いかに自分らしさを活かし自分を表現できる進路選択をするか、あるいは、自分らしい生き方を見出していくか、ということになるかと思います。そういう意味では、ここにいる3人の若者たちは、それぞれの経緯のなかで、それぞれの生き方を見出しているんだなと感じました。 高見さんに関して申し上げると、曽根由希江さんの「キラキラ」という曲のなかの「逃げたっていいよ 戻ってくるなら」という歌詞に共鳴したという話がありました。つまり、「戻ってくるなら」という条件のなかで、「不登校だからといって、そんなに頑張らないで逃げてもいいんだ」というメッセージに、いま自分にできることを見出そうとして、自分が生かされているのではなく、生きたいと思って、状況を変えることができたように思います。 安藤さんは、自分で考えて自分で判断することが大事なんだというところにたどりついています。井手さんの場合は、あれだけのお母さんとのバトルがあるなかで、なんでも頑張ってしまい、学校は行くものという思いが強かったのに、高校に入ってからは上手に休めるようになりました。そこは、まさに井手さんのなかの「常識を超えた」ところではないでしょうか。それを支えたのは、上手に休み休みしながら学校に来てくれればいいんだよと対応してくれた高校の担任の先生なんだと思います。 最後に、私自身が支えにしている言葉を紹介して、終わりにしたいと思います。それは、「私たちの人生には必要なことしか起こらない」という言葉です。逆にいえば、私たちの人生に必要のないことは起こらない、ということです。今日、3人の体験談を聞いていて、それぞれが不登校を経験して、その経験があったからこそいまの自分がある、と考えているように思いました。あらめて、この言葉の意味をかみしめたしだいです。 今日は長い間、ありがとうございました。 |
齊藤 | ありがとうございました。私自身も「学校に行く」という常識を超えることが本当にできるのだろうかと感じています。ただ、海野先生からもお話がありましたが、常識を超えられないにしても、自分らしく生きられるかどうかという視点が入ってくると、そこでいったん常識やこれまでの生き方をリセットできるかもしれません。「学校は行くもの」という常識にとらわれて苦しんでいる子どもたちや親御さんにとって、その視点がもてるだけでもだいぶ違うんだろうなと思います。 また、自分らしく一歩を踏み出すためには、誰かに自分を認められる体験が大きい意味をもつことを、3人の話を聞いていてあらためて感じました。そして、親御さんがお子さんを認められるようになるためには、親御さん自身も誰かに認められる体験が必要なんだろうなと思います。家族、友人、同じような体験をされているお母さんお父さん、あるいは専門家に相談に行くこともひとつの方法でしょう。そうしたかたちで、親御さん自身が「これでいいんだ」と思えるような状況をつくっていくことも重要だと思います。 最後に、勇気を出して貴重な体験を話してくださった3人のゲストの方々、的確な助言をいただいた海野先生、荒井先生に拍手をお願いします。(拍手) |