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体験者が語る「失敗が教えてくれたこと」 第一部

 2010年10月23日に開催された登進研バックアップセミナー74の第1部 体験者が語る「失敗が教えてくれたこと」の内容をまとめました。

ゲスト 橋本 和雄(不登校経験をもつ男の子。現在、大学1年生)
山田 佳子(息子さんの不登校を経験したお母さん)
夏川 幸子(娘さんの不登校を経験したお母さん)
助言者 木津 秀美(富士見市教育相談研究室室長)
荒井 裕司(登校拒否の子どもたちの進路を考える研究会代表)
司会 齊藤真沙美(世田谷区教育相談室心理教育相談員)

※ゲストの方々のお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。

第1部 ゲーム漬けのひきこもり生活から一歩を踏み出すまで

不登校のきっかけは?

齊藤  まず、自己紹介をかねて、学校に行けなくなったきっかけや当時の状態などについて聞かせてください。
橋本  はじめまして、橋本和雄と申します。すごく緊張していて、途中、何を言っているかわからなくなってしまうこともあるかと思いますが、よろしくお願いします。
 自分は現在19歳で、大学1年生です。両親と父方の祖母、姉が2人の6人家族ですが、今は大学の近くでひとり暮らしをしています。
 不登校になったのは、私立高校1年の6月ごろからで、翌年の9月ごろまでずっと家にひきこもっていました。きっかけは、母親のすすめで進学した高校の校則が厳しく、思っていた高校と違って窮屈な環境だったことです。家ではネットサーフィンなどをして過ごしていました。
山田  山田佳子です。不登校を経験したのは3男で、19歳、現在大学2年生です。ほかに兄が2人、姉が1人いますが、3人とも結婚して独立し、現在は3男と私の2人家族です。
 中2の夏休み明けから不登校になり、当初は頭痛・腹痛を訴え、ひきこもりました。やがて少し動けるようになり、高校に進学しましたが、大学進学が決まるまで不登校をひきずりました。きっかけは、家庭内不和、サッカー部でのいじめ、思春期特有の心と体のアンバランスなど、複合的なものだったと思います。彼をひきあげてくれるプラスに働く力がすごく弱くなっていた時期かと思います。
夏川  夏川と申します。現在、22歳になる一人っ子の娘と夫と私の3人家族です。とても緊張していますが、さっきたまたま娘からメールが入り、「お母さん、これから体験談を発表するんだよ。ドキドキなんだよ」と返信したら、「頑張れ~!」と応援メールが来ましたので、なんとか頑張りたいと思います。
 娘は、小学校6年のころから本格的に不登校が始まり、高校卒業直前まで続きました。行きしぶりが始まった当初は、学校から帰るとすぐ布団に入って寝込む日々が続き、極度の緊張からか、腹痛や鼻血がひんぱんに出るようになりました。原因は、中学受験に向けた塾通いのストレスと、いじめを受けたことによる人間不信でした。中学受験は6年の春に断念しました。いじめについては、中学校の入学式にほかのお母さんから聞かされるまで、母親の私は知りませんでした。
 高校卒業後は、北海道にある大学の酪農学科に進み、今春大学を卒業して、現在は網走の牧場に勤務しています。

玄関までおんぶして学校へ送り出す日々

齊藤  不登校になった直後、親としてどんな気持ちで、どんな対応をされましたか?
夏川  小5後半の行きしぶりのころは、子どもにせがまれて、リビングから玄関までおんぶして送り出していました。学校に行ってほしい一心で娘の言いなりになっていました。学校は「当然行くべきもの」としか考えられなかったので、「どうして行けないの?」と責めては、よく娘の前で泣いていました。主人からも「なぜ行かせない!」とよく責められました。
山田  初めのうちはなんとか行かせようとしましたが、体調不良を訴えている息子に実力行使はできませんでした。それでも息子にしてみれば、「行け行けオーラ」が強く感じられたようです。メンタルクリニックを受診させようともしましたが、「僕は病気じゃないから行かない」と断られて、断念しました。
齊藤  橋本くんの場合、ご両親の対応はどんな感じでしたか?
橋本  自分のなかでは、母親は「今日は行かないの?」とやさしく聞く程度で、厳しく責められることはなかったと思っていましたが、母親に聞くと、「学校に行きなさい」と強く言ったこともあると言っていました。あと、自分ではあまりよく覚えていないんですが、母と一緒に寝たこともちょくちょくあったようです。
 その後、母が「学校に行かないの?」と聞くことは徐々に減っていき、ある時期からまったく聞かなくなりました。不登校になった直後、自分としては、つらかった学校に行かなくてもよくなって、その解放感にひたっていた感じです。

オンラインゲームにはまってひきこもり生活に

齊藤  不登校期間中、どんな毎日を過ごしていましたか?
橋本  毎日、オンラインゲームをやり、テレビを見て、寝るのくり返し。今日が何月何日かわからなくなるくらい生活リズムがグチャグチャでした。当初は解放された気分でしたが、時間がたつにつれて不安になり、「死にたいなぁ」と思ったり、自分の部屋や風呂で叫びまくったりして、隣家から苦情が来たこともあったそうです。
 家族以外の人と話すのは、ネット上か、高校進学後に自分と同じ不登校になった友だちくらいでした。夜、その友だち3~4人と公園で会ったりして、「こんなんじゃダメだよなあ、俺たちゴミだよなあ」などと、不登校を経験した人間にしかわからない心情を話したりして支えあっていました。
齊藤  ご家族との関係は?
橋本  父とはできるだけ会わないように、父が仕事場に出かけてから部屋を出るようにしていました。母は、自分からはあえて話しかけないようにしていたそうです。自分は、母から話しかけられても、「うるさい」とか、シカトをしていたようです。
 姉は、自分が起きるころには、もう高校や大学に出かけていて、あまり会うことはありませんでしたが、会って話をするときは、ひきこもっていることにはふれずに普通にコミュニケーションをとってくれたので、それがうれしかった。
 母や姉にやさしく接してもらったことで、自分の存在価値というか、「自分はこの家にいてもいいんだ」と思えたことがいちばん大きかったし、自分として助かったなと思っています。
齊藤  山田さんや夏川さんのお子さんは、どんな生活をされていましたか?
山田  初めのころはひとりでいるのが不安なのか、つねに私の後を追いかけるような、いわゆる「赤ちゃん返り」(退行現象)の状態でした。
 その後、オンラインゲームに没頭し、完全なひきこもり生活が始まりました。20時間ゲームを続け、8時間寝て、またゲームをするというような日々でした。ゲームをしながら食事をし、「忙しい忙しい」が口ぐせでした。入浴、散髪、爪切りなどもまったくしないで、カーテンを閉め切ったほこりの積もった部屋でずっと過ごしていました。
 何度かパソコンを使えないようにロックをかけたりしましたが、息子はすぐ設定を直して使えるようにしてしまいます。でも、参加していた不登校の「親の会」の先輩から助言をいただいて、パソコンは息子の大切な「居場所」だと考え、見守るように努力しました。「居場所を取り上げたら死んでしまうか、街に行ってやさしいお兄さんやお姉さんに可愛がられちゃいますよ」と言われたのが心に響きました。
夏川  当初は、学校へ行かない罪悪感からか、NHK教育テレビの「理科の時間」などをよく観ていました。この「罪悪感」は、私が植えつけたものだと思っています。
 そのころはまだ親の力が強くて、規則正しい生活をしていましたが、私が責めるようになってからは、本格的なひきこもり生活に入り、入浴回数はどんどん減り、家族との会話や一緒の食事も減っていきました。その後、オンラインゲームにはまり、四六時中パジャマ姿で昼夜逆転の生活が、大学入学直前まで続きました。
 ただ、馬が大好きで、小5のころから毎週日曜日に「ポニーセンター」に通い、馬の世話、乗馬、来園者への説明のお手伝いをしていたのが唯一の楽しみでした。

ゲームを通じて人生勉強ができた

齊藤  今、3人からオンラインゲームの話が出ましたが、四六時中ゲームにはまっているお子さんを見て、悩んでいるご両親も多いと思います。みなさんは、ゲームに対してどんなことを感じていましたか?
山田  先ほど、パソコンは彼にとって大事な居場所だから見守っていこうと努めたと言いましたが、そう思いながらも、当時は「ネトゲ廃人」になるんじゃないか、このまま死んでしまうんじゃないかと、ゲーム会社が悪魔のように思えました。
 突然、夕方から「オフ会」(ネット上で知り合った人たちが直接顔を合わせて集まる会)に行くと言い出し、止める私に「俺を信じてくれ」と言うので、しかたなく送り出したこともあります。
 でも、今ふり返ると、オンラインゲームで知り合った、さまざまな背景をもつ友人とのつきあいを通して、普通では得られない人生勉強ができたようです。彼にとって、とても大切な経験だったと今では確信をもって言えます。
夏川  私も、パソコンを壊したいと思うことが何度もありました。ゲーム仲間とのかかわりについては、高校生になってから1年以上もかけて、親子で何度もぶつかりながら話し合いました。女の子の場合はリスクも非常に高いので心配しました。
 彼女が言うには「ネットの世界では、いかに自分の気持ちを文字だけで誤解のないように伝えるかという難しさがある」ということで、それを泣きながら私に訴えたこともあります。ネットの世界も普通の社会と同じように、いい人も危ない人もいて、人生の裏表にも少しはふれていたようで、学ぶことも多かったのではないかと今では思います。
 いじめで不登校になったことから、そのショックで高校時代まで鉛筆を持って字を書くことができなかったんですが、そのときにパソコンが役立ち、作文などの課題があるときは、いったんパソコンで入力したものを書き写していました。また、私の使っていた電子辞書は、ゲームのチャットのときの必需品となり、高校を卒業するころには液晶画面が薄くなって使えなくなるほどでした。電子辞書を使い慣れていることが、高校の修学旅行(海外)での一泊ホームステイで大いに役立ったこともありました。ゲームにはまるのも、あながち悪いことばかりではなかったかなと思っています。

言わなければよかった「あの一言」

齊藤  親も子も苦しい状況のなかで、相手を傷つけるようなことを言ったりしがちです。ついカッとなって、「あなたさえいなければ」と口にしてしまったお母さんもいます。前回のセミナーのアンケートには、お子さんが「母親失格」「消えろ」などと言うので、本心ではないと思いながらも悲しいと書いてくださったお母さんもいました。
 ゲストのみなさんにも、ついよけいな一言が出てしまったり、ひどいことをしてしまったという経験はありますか?
夏川  言ってはいけないこと、してはいけないことをしてしまった経験は、数かぎりなくあります。ほかの子と比較して「なんであなたはできないの?」と責めたり、「あなたが学校に行かないから、お母さん、恥ずかしい」と言ったり、娘の声が聞こえるとご近所に恥ずかしいので、夏でも窓を閉めっぱなしにするなど、とにかく娘の存在を否定し続けました。
 世間体が気になって、日中は娘と一緒に外出できない時期が長く続きました。当時、参加していた地元の「親の会」のスタッフの方に、「どうして一緒に出かけないの? 2人でひきこもっていたらかわいそうじゃない」と言われ、親の私が娘のひきこもりに拍車をかけていたことに気づきました。
山田  息子は、オンラインゲームで居場所を見つけるまで少し荒れていた時期があり、よく壁を殴って穴を開けたりしていました。見ていると、穴の開きやすい石膏ボードの柔らかいところばかり殴っていたので、「もっと硬いコンクリートのところを殴ればいいのに」と言ってしまったことがあります。ひどいことを言ったと後悔しています。
橋本  母親に向かって、「死ねばいい」「どっか行っちゃえよ」「こうなったのは、おまえのせいだ」などと、ののしったりしました。母親のほうも、逆ギレ状態で叱ってきたり、泣きそうになったりすることもありました。
 ただ、自分が母に対してそういう暴言を吐くというのは、ほとんど八つ当たり状態で、自分自身にいらだって、半分は自分に向かって言ってるようなものだと思っています。
齊藤  橋本くん、親や家族の接し方で、嫌だったこと、うれしかったことは?
橋本  あのころの自分にとっては、とにかく「家に居場所がある」ということがいちばん重要であって、だから母親もそれをわかっていてやさしく接してくれたんだと思います。ひきこもっていることについても何も言わず、普通に会話をしてくれました。あるとき、母親が読んでいた不登校関係の本をたまたま見つけたことがあって、そのとき、「こんなにも自分のことを考えてくれていたんだな」と思いました。
 姉がかけてくれる言葉も、とても大きなものがありました。やはり母よりも姉のほうが近い存在なので、友だちのような感じで言い合いもできるし、姉が何か言ってくれると助かったような気持ちになりました。
 自分が「家にいてもいいんだ」と思えたのは、家族がそういうふうにやさしく接してくれたからで、それが、ただただうれしかったです。

泥酔して弱音を吐いた父親の姿が忘れられない

齊藤  親子の間で、考え方の違いなどから激しく衝突したことはありますか?
 以前、このセミナーに出てくれた女の子は、お父さんと取っ組み合いのケンカをしたと言っていました。また、お父さんと言い争いになって殴られたという男の子もいました。でも、殴られたとき「本気で自分のことを考えてくれているんだ」と感じて、それからは父親を見る目が変わったそうです。
 みなさんも、そうした衝突のあとでお互いの関係に何か変化はありましたか?
山田  不登校になって間もなく、私の心ない一言がきっかけだったと思いますが、息子が「ボクを受け入れてくれないと、この家をメチャクチャにして、お母さんにも暴力を振るっちゃうかもしれない。受け入れてくれよ!」という心の叫びみたいなものを、涙を流しながら語ってくれたことがあります。そのことがあったので、「どうにか受け入れなくちゃ」という思いがいつも心の奥にあったせいか、激しい衝突は起こりませんでした。
夏川  私と娘との衝突はいろいろありましたが、主人は、娘には直接何も言いませんでした。その分、私にはずいぶん言ってきましたが……。
 高校1年のころ、母子関係が悪化したときに、娘がストレスのはけ口を私の容姿のことに向けて、チクチクチクチクと嫌みを言い続けたことがあります。するとあるとき、主人が「それはお母さんへのいじめじゃないか、弱い者いじめだ!」と怒り、そこから始まって、「このまま学校に行かず、家にいてどうするんだ!」などと思いのたけをぶちまけ始めたんです。そうなると私は思わず娘の味方をして、娘と一緒に泣きながら父親に抵抗しました。
 ところが、父親の本音が初めて娘に伝わったことで、その後、娘と父親の間に信頼関係が生まれてきたようです。いまだに娘は何か大事なことがあると、まず父親に相談するようなところがあります。
橋本  父親とのことで印象に残っていることが2つあります。
 ひとつは、自分がひきこもり始めてすぐのころ、父親が部屋にどなり込んできたことです。いきなり胸ぐらをつかまれ、「おまえはこの部屋にいるからダメなんだよ。何をやってんだよ! この部屋から早く出ろ! 早く出ろ!」とものすごい形相で迫ってきました。自分には殴り合う気力もなく、怖くて父親の顔も見られず、ただ泣きじゃくっていました。父は、「頼むからしっかりしてくれよ!」と泣き声で捨て台詞を残して、部屋から出ていきました。
 もうひとつは、高校1年の冬のことです。それまで酒に酔ったことも、弱味を見せたこともなかった威厳のある父親が晩酌で泥酔し、精神的に崩れたような状態で、「俺はおまえらのために頑張ってきたのに……」と弱音を吐き続けたことがありました。そんな父親の姿を見ておくべきだと考えた姉が、その場に自分を呼びました。それまで一言も言わなかった父が、仕事と自分の不登校のことでこんなに苦しんでいたのかと、そのとき初めて気づき、とてもショックでした。
 それ以後、留年も決まって、あとがないと考えるようになり、そろそろ動き出さないといけないなと思い始めました。

心理的な距離が近いからこそ子どもは母親に暴言を吐く

齊藤  これまでの3人のゲストのお話について、助言者である木津先生や荒井先生の感想を聞かせてください。
木津  先ほど、橋本くんがお母さんに対して「死ねばいい」とか、いろいろひどいことを言ったと話してくれました。夏川さんの娘さんも、お母さんに向かってチクチクと嫌みを言ったとのことでした。そのことについて少しお話ししたいと思います。
 不登校にかぎらず、子どもというものは自分の思うようにいかなくなると、まず母親を責めます。たとえば、小さい子どもが母親と一緒にスーパーに行ったとしましょう。母親が入り口で「そこは段差があるから気をつけて」と言い、その子は「うん」と返事をするけれども、言っているそばから転ぶ。そのとき、ほとんどの子どもは「お母さんのバカ!バカ!バカ!」と言って、母親のひざをたたいたりします。自分がうっかりして転んだくせにお母さんをたたくというのは理屈に合わないんですが、その子としては、転びたくもないのに転んで、おまけに痛いということで、その腹立たしさやいらだちを、お母さんをたたくという形でぶつけてくるわけです。
 これと同じように、不登校でどうにもならなくなった状況のなかでも、いちばん心理的距離が近い母親にひどい言葉をなげかけたりすることが、ほとんどの事例でみられます。
齊藤  橋本くんがお母さんに暴言を吐いたのも、お母さんとの心理的な距離が近かったから?
木津  そうだと思います。逆にいえば、お母さんが冷たくて厳しい人だったり、緊張を強いられるような人であれば、子どもはそんなことはしません。近いと思えば思うほど、そういうひどいことを一時的にすることがあるわけです。
 大人の男性でも、突然重い病気にかかったりすると、妻や母親が見舞いにきてリンゴをむいてくれたのに、「こんなもの食えるか!」と投げつけたりすることがあります。つまり、自分が病気になった不安やイライラを心理的距離が近い人にぶつけているわけですが、そういうひどいこと、失礼なことを、平気でできるのが家族というものであり、家族の証なのです。
 そして、それができればできるほど治りが早い。それができないと自分で自分をたたくしかなくなり、気持ちがどんどん内にこもってしまいます。不安やイライラは、外に出すことで沈静化していく部分があるので、お母さんにしてみれば一時的とはいえ、ひどい目にあうわけですが、そういう気持ちで受けとめてあげるといいのかなと思います。
齊藤  荒井先生は、どんな感想をもたれましたか?
荒井  3人ともお子さんがオンラインゲームにはまったという話が出てきましたが、不登校になった子どもたちは、ほぼ100%といっていいほどゲームにはまります。山田さんは「ゲーム会社が悪魔のように思えた」と言い、夏川さんはパソコンを壊したいと思ったと話していましたが、親にしてみれば当然の気持ちだと思います。
 しかし、ほとんどの子どもは楽しくてゲームをやっているわけではありません。不安で不安でそれにはまるしかない、それ以外に時間のつぶしようがない、あるいは、どこかで外とつながっていたいという思いがあってゲームをやっているのです。それを理解してあげてほしいと思います。
齊藤  橋本くんの話に、しきりにうなずいておられましたが。
荒井  いやぁ、橋本くんの口から出てくる言葉はすごいものばかりで、びっくりしました。
 たとえば、同じ不登校になった友人たちと会って、「俺たち、こんなんじゃダメだよな」と言いあっていたというエピソード。学校に行けなくなって部屋にひきこもり、出口が見えずに、ものすごく苦しい状況にある子どもたち自身が「このままじゃダメだ」と感じていること自体、すごいことです。子どもたちはどんな状況にあっても、自分の力でなんとかしたい、前に出ていきたいという思いがいっぱいあるんだと感じました。
 また、お母さんに対して「死ねばいい」とか暴言を吐いていたけれど、今思えば「半分は自分に向かって言ってるようなものだと思っています」と話してくれました。こんな言葉、お母さんが聞いたら、きっと泣いてしまうでしょう。
 たしかに、お母さんにしてみれば、子どもから「死ねばいい」なんて言われたらショックです。自分の可愛い子どもが、なぜこんなひどい言葉を私にぶつけてくるんだろうと感じることでしょう。でも、子どもの側からすると、「うるせえクソババア」は「おはよう」だったり、「死ねばいい」は「こんにちは」(笑)、「消えろ」は「こんばんは」(爆笑)だったりするわけです。そんなふうに子どもたちの言葉を受けとめて、自分のなかで消化していただければと思います。

動き出すきっかけになったこと

齊藤  不登校の状態から動き出すきっかけになったことは?
橋本  私立高校での留年が決まってからは、ひとつ年下の学年と同じクラスになるのは嫌だから、もうその高校はやめようと、自分のなかでは決めていました。
 そのころ、母親からすすめられたメンタルフレンドと一緒に外出するようになりました。最初は知らない人とどこかへ行くことに抵抗がありましたが、日中、家族や友だち以外の人と接したのは久しぶりの体験でした。その一環で、メンタルフレンドが都内のサポート校の見学に連れていってくれたこともあり、結局、そのサポート校に転入しました。
 そのメンタルフレンドやサポート校を探してくれたのも母親であり、そうした母親の働きかけが、自分にとっては動き出すきっかけのひとつになったと思います。
夏川  中学時代は、小学校でいじめられた心の傷を引きずっていて、何度か再登校を試みましたが、授業に年2~3回と行事のときに数回くらいしか行けませんでした。橋本くんのようにメンタルフレンドに来てもらったり、適応指導教室に通ったりと、ありとあらゆることをしました。どれも長続きはしませんでしたが、いろいろな経験値として残るのかなと思っていました。
 高校での3年間もそれよりちょっと元気になったかな、くらいの状態でしたが、高2の3月からはファミリーレストランでアルバイトを始めるくらいまでエネルギーがたまってきました。ただし、そのアルバイトも自分でやりたいと言い出してから、1年間の心の準備期間が必要でした。
 実際に動き出すきっかけになったのは「自分にも行ける大学があるんだ」という大学進学への希望が見えたときでした。文章を書くことが好きで、自分の作品をホームページにアップしていたことは大学入試のときの「小論文」に役立ち、接客のアルバイトで得た自分の言葉で伝える力は「面接」で役立ったと思っています。
山田  本人は「不登校だから高校なんか行けるはずがない」と思いこんでいたとき、中学校の友人が「一緒に定時制高校に行こう」と誘ってくれました。定時制という道があることを知ったことで希望が生まれ、動き出し始めました。
 最終的にはサポート校に進みましたが、やはりなかなか登校できませんでした。ところが、1年の冬休みに自分から言い出してアルバイトを始め、同じころ、部活のときだけ登校するようになりました。さらに、大学に進学できることが決定してからは、なんと朝から毎日登校するようになったんです。
※この続きは、「第2部」 で読むことができます。

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