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登進研バックアップセミナー82・講演内容

 

さよなら不登校partⅡ~支えてくれた人がいたから、今がある


*2012年6月17日開催の登進研バックアップセミナー82で行われた「不登校体験者と直接話せる、質問できるセミナー『さよなら不登校partⅡ〜支えてくれた人がいたから、今がある』」の内容をまとめました。
*「不登校体験者と直接話せる、質問できるセミナー」では、参加者の方々が10〜20人のグループに分かれて一人のゲスト(体験者)を囲み、自由にお話ができるようにしました。1グループに1人のカウンセラーが世話役として加わり、お話の整理をしています。以下の抄録で「Q」とあるのは、参加者の方々から体験者に向けての質問です。
*ゲストのお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。

 

ゲスト

石田和也(大学生、21歳)

世話役

小栗貴弘(目白大学人間学部心理カウンセリング学科助教)

 

石田和也さんのプロフィール

●不登校の期間:中2から高2くらいまで。
●不登校のきっかけ:家庭内不和、中学校時代のサッカー部でのいじめ、思春期特有の心と体のアンバランスなど、複合的なものだったと思う。
●不登校になった当初の気持ち:漠然とした不安と、自分が普通じゃないという不安、普通から逸脱することへの不安をずっと抱えていた。学校に行っていないことは普通じゃない、と悩んだ。この悩みは高2くらいまで続いた。
●当初の親の対応:母は、最初のころはオンラインゲームができないように回線に細工をするなど、ゲームに否定的な対応をした。その後、地域の不登校の親の会に参加して、ネットゲームを否定してはいけないということを学習してきたようで、否定的な対応はしなくなった。
2人の兄は独立していたが、長男が実家に遊びに来て、「お前、まだ学校を休んでるのか」と言われ、殴り合い寸前のところまで行ったこともある。
●不登校中の生活:ネットゲーム中心の生活で、昼夜逆転もあった。ネットゲームにハマったのは現実を直視できなかったから。それと自分の居場所づくりだったのかなと思う。

不登校から抜け出すきっかけ

     

Q

 不登校になった当初、頭痛や腹痛があったそうですが、いつ頃まで続きましたか?

石田

 頭痛や腹痛を訴えて休んでいた時期は、不登校といえるほどコンスタントに休んでいたのではなく、週に1〜2日程度休んでいたにすぎません。頭痛や腹痛のほかに微熱もあり、実際に37度とかありました。
 本格的な不登校になってからは、そうした症状はなくなりました。行かなくちゃ、行かなくちゃと考えている時期に出た症状でした。

小栗

 不登校の初期に体調不良を訴えるお子さんは多いと思いますが、石田くんの場合、「学校を休む」と覚悟を決めてからは症状は治まったわけですね。私の知っている中学生のお子さんも過敏性大腸症候群で苦しめられ、学校まで30分の道のりの途中にあるトイレを全部チェックしたうえで登校していました。

 

Q

 不登校状態から抜け出すきっかけはなんですか?

石田

 中学校卒業後にサポート校に進学したのですが、最初の頃はほとんど登校できず、1年生のときは夕方たまに学校に顔を出して、先生と少し話をして帰ってくる程度でした。そのうちサッカー部の顧問の先生が「今度、サッカー部に遊びにおいでよ」と誘ってくれて、学校に通い出す前に部活に通うようになったのが立ち直りのきっかけかなと思います。
 ただ、不登校を完全に脱出したきっかけがこれだと言えるようなものは、今でもわかりません。それまで我慢強く母が見守ってくれていたからかなと思っています。
 大学は推薦で入学しましたが、入学後も休みがちではありました。でも、単位を落とさない程度には出席し、現在は別の大学に編入して英語を中心に勉強しています。

 

Q

 大学進学を目指すのは大変じゃなかったですか?

石田

 ひきこもっているときから将来への不安が強くあって、大学に入って何かやりたいことがあったわけではありませんが、とりあえず大学に入っておかないと社会に出てから困るかなという思いで進学しました。
 サポート校でもちゃんと立ち直れたわけではなく、あまり勉強をする余裕もなかったのですが、高校3年の頃から兄のサポートもあり、英語だけ集中的に勉強するようになりました。それが、現在、大学で英語を中心に勉強するきっかけになったのかもしれません。

 

Q

 サポート校でも大学に推薦で入学できるのですか?

石田

 学校のレポート提出は最低限こなしていたので、内申点は入りたい大学が推薦入学の基準としている成績をクリアしていました。それよりも重要なのは面接試験かなと思いますが、将来への不安もあって、何とかその大学に入学したいという強い気持ちを面接でアピールしたことが功を奏したのかもしれません。

 

Q

 最初に入学した大学から、現在の大学に編入したのはなぜですか?

石田

 不登校のときから、「学校に行っていない」ということで「自分は普通じゃない」というコンプレックスがありました。ほかの友だちは、普通に学校に通い、学力もつけて、スムーズに社会に出て行けるだろうけど、僕は学校に行けないことから、社会にも出て行けないのでは、という不安もありました。
 だから、大学に入って新たに勝負するという気持ちでやる気満々だったのに、最初に入学した大学は勉強する雰囲気がまったくなく、学生たちのやる気のなさに失望しました。ほかの大学に入り直そうかと思いはじめた頃、カナダへ短期留学に行き、そこでアジアの若者たちと出会ったことで世界の文化に興味がわいてきました。それで、世界の文化を勉強するためのフィールドは英語だと思って、帰国してから必死に勉強し編入試験を受けて、現在の大学に移ったんです。

小栗

 カナダへの短期留学を経て、勉強して編入試験を受けて、現在の大学に移ったというプロセスは、石田くん自身が決めたという意味で重要なポイントなのかなと思います。

 

夢や目標があれば頑張れる

     

Q

 不登校になってから勉強はどうしていましたか?

石田

 僕が通っていたサポート校は習熟度別クラス編成になっていて、僕は学力的には下のレベルのクラスに所属していました。サポート校では、小中学校で抜け落ちた部分なども教えてくれますが、家で自主的に勉強することはありませんでした。

 

Q

 家庭教師をつけてもらったり、個別指導の塾などに通っていましたか?

石田

 不登校のときはありませんでした。母がそのような話を持ちかけてきたことはありますが、勉強する気になれなかったので断っていました。

 

親が勝手に家庭教師をつけたり、「勉強しなさい」と言うのではなく、子どもにやる気が出るまで待ったほうがいいのでしょうか?

石田

 僕は、勉強をやるときに明確な理由が欲しいタイプなんです。「勉強をやりなさい」と言われると、「何のためにやるの?」と言い返したくなってしまう。
 僕が英語を勉強するきっかけになったのは、アメリカの「ヤングアメリカンズ」という団体が、サポート校の生徒とのコラボレーションでミュージカルを上演する機会に出合ったからです。アメリカの若者たちと一緒に2日間ミュージカルの練習をして、3日目に保護者の前で上演するというイベントでした。その際、わが家はアメリカの若者たちをホームステイ先として受け入れたのですが、英語が話せなかったので、母から教わった簡単な英会話以外はコミュニケーションがとれずに、とても悔しい思いをしました。それが英語を勉強したいと強く思うようになったきっかけです。
 だから、お子さんに夢とか短期的な目標でもいいですが、それがあれば頑張れるかなと思います。夢や目標は、自分で見つけることもあるだろうし、人にヒントをもらう場合もあるでしょうが、僕はそうした目標が必要なタイプです。

小栗

 ちなみに、お母さんから教えてもらった英会話って何ですか?

石田

 アメリカの若者たちと一緒に家に帰る途中で母から聞くように言われていたのは、「シャワーを浴びますか?」「今日の夕食は何がいいですか?」の2つでした。彼らは優しく「イエス、イエス」と答えてくれるだけなんですが(笑)、それだけでも楽しかったし、反面、それしかコミュニケーションがとれないのが悔しかった。

小栗

 お母さんが簡単な英会話を教えてくれたことは、石田くんへのタイムリーなアシストになっていますね。
 英語を勉強しようと思うきっかけになったのは、アメリカの若者たちとコミュニケーションがうまくとれずに悔しい思いをしたからということでしたが、おそらくそれだけではなかったと思います。自分が話す英話がアメリカの若者に通じたとか、わかってもらえたという喜びがなかったら、そのあと続かなかったでしょう。
 お母さんから教えられたとおりに簡単な英会話を話したら、アメリカの若者たちとコミュニケーションがとれたという喜び。その一方で、教えられた英語以外は通じない悔しさ。これらがその後の英語の学習欲の喚起に結びつき、大学での進路にもつながったのではないかと思います。

 

Q

 うちの子も「何のために勉強を頑張らないといけないのかわからない」と言います。その答えがまだ見つからないようで、自分で積極的に探しているようにも見えません。石田くんが英語を勉強したいという目標を見つける前はどんな状態でしたか。そのとき、お母さんにどんな対応をしてほしかったですか?

石田

 僕はひきこもってネットゲームをしていたわけですが、基本的にはチャットをしながらネットゲームに参加している人とコミュニケーションをとっていたのです。ところが、そのチャットが途絶えたり、チャットしていた人が退場したりすると、急に不安になったり、「自分は不登校で普通じゃないんだ」とかマイナス方向に考えて悲しくなったり、イライラしたり、そうした葛藤をずっと抱え込んでいました。おそらく、今、ご質問のお子さんも何も考えずにネットゲームをやっているわけではないと思います。
 では、どうしたらいいのかという具体的な解決策はすぐ見つかるものではないでしょうが、その解決策を自分で考えさせるために、母は僕を否定しないで待っていてくれたんだろうし、外に出るきっかけもつくってくれたんだと思います。
 その頃、母は福祉関係のNPO法人を運営していて、たまにその事務所に連れて行かれて障害者の方たちとふれあう機会をつくってくれたりもしました。それで、将来は福祉関係の仕事に就こうかなと考えたこともあったのですが、そういうビジョンって、けっこう簡単に消えてしまったりするんですよね。

小栗

 石田くんのお母さんのアプローチで大切なのは、彼を否定しないで受け入れ、待ちつづけてくれた点です。「受容すること」と「放置すること」は、一見、似ているようで大きく異なります。お母さんは、彼を否定せず受容しながらも、何もしないのではなく、外の世界とふれあう機会をこまめにつくるなど、ずっとかかわりつづけてこられた。不登校のお子さんにかかわるとき、このように否定するのではなく受容しながらも、ご両親の意見を伝えたり、提案することはできるのかなと思います。
 石田くんは、もしお母さんがネットゲームのことをはじめ、自分のことを否定していたらどうなっていたと思いますか?

石田

 ひきこもっていたのは中3から高1くらいですが、その間ずっとネットゲームをやりながら、「普通じゃない」という思いをひきずっていました。その頃、母に否定されていたら、自分の将来のことなんか考えられなかったと思うし、たぶんあと5年とか10年くらいはひきこもって、やせ細っていたかもしれません。
 立ち直るきっかけは人それぞれだと思いますが、僕の場合は、とりあえず自分で考え抜くということでした。そのプロセスを見守ってくれたからこそ、解決にたどりつけたのかなと思います。

 

サポート校を選んだ理由

     

Q

 サポート校に行こうと思ったのはなぜですか?

石田

 もともとは定時制高校に行こうと思っていたんです。不登校だった中学時代に唯一の友だちがいて、ちょっとヤンキーなタイプなんですが、彼が「一緒に定時制に行かないか」と誘ってくれたので、そこを受験し、合格して入学手続きも終えていました。
 ところが母は、荒れているイメージのある定時制高校は僕には合わないんじゃないかと考えたようです。それと、定時制高校だって登校しないことには単位がとれないわけで、不登校状態だった僕には厳しいのではないかと判断したのだと思います。そこでサポート校をもうひとつの選択肢として提示してくれたのですが、当時の僕には「定時制はダメよ! サポート校にしなさい」ときつく言われたような感じがしました。
 それでサポート校を2〜3校見学してから、部活もあるし、いろいろなタイプの生徒が通っていて面白そうだなと思って、そのうちのひとつに決めました。

小栗

 今のお話を聞いていて、ところどころにお母さんの印象的なかかわりがあったような気がします。当初は友だちのすすめで定時制高校に行こうと思って受験し、合格して入学金まで払ったけれど、お母さんはサポート校をすすめた。石田くんは半ば強制的な圧力のように感じたようですが、今、振り返ってみて、お母さんのアドバイスどおりにサポート校に入学したことをどう思っていますか?

石田

 サポート校に入学してからも不登校状態は続いていたので、定時制高校に入学したとしても登校できずに単位が取れないまま退学になっていたと思います。
 友だちのタイプから考えると、定時制高校の雰囲気のほうが自分に合うのかなと思っていましたが、サポート校のクラスメートにもいろいろなバックグラウンドをもった人がいて、そうした友だちとつきあうのが面白くて。学年が上がるたびに他の高校から編入してくる人も加わって、さらにさまざまな個性をもつ人が多くなり、より面白くなってくる。そのなかで、今でもつきあっている友だちも見つかりました。

小栗

 確かに、定時制高校に行っていたら1年生でドロップアウトしていたかもしれませんね。結果的にみれば、お母さんのアドバイスどおりにサポート校に行ってよかったのだと思います。

 

Q

 お母さんにサポート校を強くすすめられて反発はありませんでしたか?

石田

 どうして僕の意向を否定するんだろうという思いはありましたが、それ以上に僕のことを考えてサポート校をすすめてくれているのが伝わってきたので。また、僕自身も不登校状態をひきずりながら、出席を前提とする定時制高校に行くことに多少不安もあったので、強い反発というほどのことでもなかったかもしれません。

 

Q

 サポート校時代にアルバイトを始めたそうですが、アルバイトとはいえ、社会に出て働くことに不安はありませんでしたか?

石田

 初めてのバイトだったので不安はありました。母も心配だったようで、最初は反対しましたが、僕は新しい人間関係に入っていくのが楽しみで、けっこうワクワクしていました。バイトは、ホームセンターでお客さんが買った物を袋に詰めたり、大きな荷物の運搬作業が中心でした。ひょっとしたらバイトを探していたときに求人広告を持ってきたのは母だったかもしれないので、母の陰ながらのアシストがあったのかもしれません。
 バイトをやりたかったのは、自分が欲しい物を買うためのお金を自分で稼ぎたかったからです。母からおこづかいをもらってはいたのですが、いつもいつももらってばかりではダメかなと思っていたので始めました。

 

なぜ、ゲーム依存から抜け出すことができたのか

     

Q

 かなり依存していたオンラインゲームをやめることができたのはなぜですか?

石田

 ゲームはすぐにやめられたわけではなく、サポート校に入学してからも続けていました。ただ、ネットゲームをしながらも、ときどきは友だちと会って話をしたり、母に旅行に行こうと誘われれば一緒に出かけたりもしていたので、ずっとひきこもり状態だったわけではありません。そんなふうにゲームに依存しながらも、外の世界との関係も維持していました。
 ネットゲームにハマると人間関係をいっさい遮断してしまう人もいるようですが、僕の場合は母の影響なのか実際の人間関係にも依存してしまうタイプなので、まったく人間関係がなくなってしまうことが怖いのです。だから、ネットゲームのなかでも友だちをつくったりして、自分の居場所のひとつになっていたと思います。
 振り返ってみると、高校1年でサッカー部の顧問の先生が部活に誘ってくれてから、少しずつ部活に行く機会が増え、サッカー部にも仲のよい友だちができて、だんだん現実世界での人間関係が増えていくにつれて、ネットの世界のつながりの必要性を感じなくなったように思います。

小栗

 ゲーム依存については、お母さんが石田くんとのかかわりを切らずにいてくれて、旅行に連れ出してゲームを忘れる機会をつくったり、現実世界にふれるきっかけをつくってくれたことも的確なかかわり方だったように思います。

石田

 大学に入ってから一度だけ、高校のときの友だちとネットゲームを再開したことがあります。短期間だけハマったんですが、何か物足りなさを感じてすぐにやめてしまいました。おそらく現実の世界でのつきあいのほうが面白かったり、充実していたからかもしれません。

 

Q

 わが家ではオンラインゲームを5時間続けると自動的に切断するように設定してあるのですが、それを続けても問題ないでしょうか?

石田

 いったんネットゲームにハマっちゃうと、そこにネットワークを築いて自分の居場所を見つけてしまうので、そこから抜け出すにはかなり時間がかかると思います。だから、最初から認めてしまうと依存を深めてしまうことになるかもしれません。
 僕の場合は、母に受け入れてもらってすごく助かったわけですが、もしパソコンが使えない状態にされたら、当時の僕なら狂ってしまうような気がします。

小栗

 それは程度の問題で、今まで5時間で済んでいるのであれば、5時間のままで大丈夫だと思います。でも、10時間やっていたのをゼロにするとなると、ものすごく反発があるはずです。要は、ほかにすることがなく、時間の過ごし方がわからないので、不安を紛らわすためにネットゲームをやるわけですから、いきなり10時間がゼロとなるとパニック状態になるでしょう。
 パソコンでユーチューブやニコニコ動画を見るなど、ゲーム以外の時間の過ごし方も自分なりに折り合いをつけているのであれば、それはそれで大事かもしれません。

 

Q

 中3の男の子で、1年ほど不登校になっています。学校の友だちとはまったく接していない状況ですが、上にはちょうど石田くんと同年齢の兄がいて、ネットのなかでも年上の人とばかりコミュニケーションをとっているようです。兄、家族、ネットでの知り合いと、すべて年上の人とばかりつきあっているので、高校に入ったときに同級生とうまくやっていけるのか漠然とした不安を感じているようですが、どう思われますか?

石田

 当時、僕も年上の人のほうが話しやすいというのはありました。ひきこもっていると当然のことですが、学校のクラスメートとは会わないので、同年代の人と何を話したらいいかわからないし、ノリもわからない。だから、年上の人のほうがまだつきあいやすいという感じがあったのかなと思います。
 僕が通ったサポート校はいろいろなタイプの生徒がいて、ネットゲームをやっている生徒もいたし、それで話が盛り上がったりしたのですが、ネットゲームを続けているお子さんなら同じような思いをしているかもしれません。
 でも、ひきこもりから抜け出して以降、同年代の人たちとのコミュニケーションにも、サッカーとか同じ趣味の話題を通じて少しずつ慣れていったように思います。

小栗

 ひきこもりなどで長期間にわたり同世代とかかわっていないと、今、何が流行っているのか、どんな話をしたらいいのか、どんな話し方をしたらいいのかなど、けっこう戸惑うお子さんもいるようです。そういう意味では、同年代の人とコミュニケーションをとることに、最初は不安があるかもしれませんね。

 

不登校中の体力の衰えをどう防ぐか

     

Q

 うちの子は学校に行けなくなって1年ちょっとですが、ほとんど外出しないので筋肉がすっかり落ちてしまって、身長162cmで体重が32kgしかありません。そうした体力的な衰えはありませんでしたか?

石田

 顔色は悪かったのですが、そこまで極端にやせ細ることはありませんでした。食欲はあったので食事はリビングでとって、食べ終わるとまたすぐ部屋に戻るというパターンでした。リビングにも自分の部屋にもパソコンがあって、ネットゲームは2台のパソコンを使うと有利になったりするんですよ。なので、2台のパソコンの間を行ったり来たりして忙しかったんです(笑)。もしかしたら、それが運動になっていたのかもしれません。

 

Q

 一時、食べることも飲むこともできなくなって、今は多少改善されましたが、それでも32kg以上増えません。ちょっと外出すると、気分が悪くなってしまったり…。こんな状態では、高校に入れたとしても通学できないのではと心配です。

石田

 僕もやはり体力は落ちました。サポート校に入学して、しばらく登校できない状態が続いたのですが、たまに夕方、学校に行くことがありました。その学校と自宅の往復だけでグッタリしたり、先生と話しているときも疲れて机の上にうつ伏せになったり、部活に参加しはじめた頃は、よく吐いたりしていました。その後、体力を取り戻したのは、サッカーを続けたからかなと思っています。

小栗

 不登校のお子さんはどうしても体力が落ちてしまいますから、親御さんが登校支援をするときに、体力はとても大切な要素になります。
 登校支援というと、学校に行かせることばかりに目が行きがちですが、そうではなく、将来を見越して、希望する高校まで行き帰りができる体力を中学生のうちから養っておくとか、転校するなら、その前から転校先の学校まで往復できる体力をつけておくといったことも大切です。そのための準備として、お子さんと一緒に散歩をしたり、歩いて買い物に行くといったことも立派な登校支援のひとつです。
 そのほか、高校に通うことを考えた場合にチェックしておきたいのは、通学に使う電車が上りか下りか、つまり朝のラッシュにぶつかるかどうか。最寄り駅から高校までは徒歩何分くらいか。始業時間は何時なのか。これらを確認しておくことも、体力面への配慮としては大切なポイントになると思います。

 

自分は自分、他のケースを当てはめないでほしい

     

Q

 お母さんが親の会に参加したり、その資料が家に置いてあったりするのは、嫌ではなかったですか? 私は参加していることを気づかれないように、資料も隠してしまうほうなのですが、逆に資料などを見せたほうがいいのでしょうか?

石田

 母が買ってきた不登校関係の本や、親の会でもらってきた資料を家で見たときはびっくりしましたが、それより母の友人などに「うちの子、不登校なのよ」と言われるのが嫌でした。できれば、僕の友だちの両親にも絶対言ってほしくなかった。
 僕はネットゲームで毎日忙しかったんですが(笑)、母とはけっこうコミュニケーションがとれていたので、日常会話のなかで「今日は親の会に行ってきたのよ」と言われたりもしましたが、嫌な気はしませんでした。

 

Q

 今日のセミナーの資料にも不登校を体験した方のプロフィールやメッセージが掲載されていますが、当時、こうした資料などを見ると、自分だけが不登校じゃないんだと思って安心できたりしましたか?

石田

 母が持ち帰った親の会などの資料が置いてあっても、自分から読もうとは思いませんでした。一度だけチラッと見たことはありますが、あまり読みたくないなと思ったことを覚えています。  母からある不登校の子の話をされて、その子がひきこもりから立ち直ったエピソードを聞かされたときも、ちょっと生意気に聞こえるかもしれませんが、「自分は自分で、ほかのケースを当てはめないでほしい」と思いました。

 

Q

 東日本大震災をきっかけに、それまでひきこもっていた人が動き出したという新聞記事を読んだことがありますが、石田くんも何か心を揺さぶられるような体験があったら、動き出したと思いますか?

石田

 今、考えると、心を閉ざしていた程度が時期によって違っていて、外の世界を完全に遮断しているときは、震災などのニュースを見聞きしてもたぶん何も感じなかったかもしれません。
 ただ、外の世界で起こっている出来事が動き出すきっかけになることはあると思います。僕がひきこもっている間にも、家庭内では祖父が亡くなったりとか、いろいろな出来事がありました。そうしたいろいろなことが動き出すきっかけとなって、現在の僕があると思っています。しかし、大震災がきっかけになって誰もが動き出せるかというと、そうとは限らないと思います。

 

Q

 当時の石田くんに現在の石田くんが会いに来たとしたら、状況が打開できるような気がします。当時の石田くんの立場で、そうしたことが役に立つのかどうか教えてください。

石田

 もし、不登校経験者が会いに来ても、すぐに打ち解けることはできないような気がします。逆に、「何だこいつ、偉そうだな」と思うかもしれない。不登校やひきこもりになるきっかけも、立ち直るきっかけも、一人ひとり違うと思うし、少なくとも僕の場合は、そういったメンタルフレンド的な人と会うのが効果的かどうかわかりません。

小栗

 今の2つの質問に対する石田くんの答えに共通していたのは、心を閉じている時期と、外に向かって開いている時期があるということだと思います。
 どちらの時期にあるかで、波長が合う合わない、タイミングが合う合わないという問題が出てくるわけで、親御さんが同じ情報(たとえば進路情報など)を伝えるにしても、中2の頃に話をするか、中3になって進路選択の時期が迫ってきたときに話をするかで、状況は大きく異なってくるでしょう。石田くんの場合もそうですが、心が開いている状態になっているかどうか、そのタイミングを見計らって話をすることが大切な気がします。

 

ひきこもりからの脱出

     

Q

 高校2年でひきこもりから立ち直ったということですが、その時期を境にすっぱりと立ち直れたのか、それとも時間をかけて徐々に立ち直っていったのでしょうか?

石田

 どちらかというと、僕は徐々にひきこもりから脱出したほうだと思います。どうして高校2年のときに脱出できたと思ったかというと、ちょうどその頃、部活に参加したり、外に出かけたりしはじめた時期なんです。
 外に出てみると、いろいろな出会いがありました。学校でもそうですし、母にも出会いのチャンスを与えてもらいました。大阪の障害者福祉施設にボランティアで2週間行かせてもらって、そこで重度の障害者の方たちとふれあうことができたり、母のすすめで介護ヘルパー2級の資格も取得しました。
 僕は、それまでずっと「普通じゃなくてもいいんじゃないか」と自問自答していたのですが、一方で、「いやいや普通でないといけないよ」と否定する自分もいたわけです。ところが、いろいろな出会いを重ねているうちに、自分の中の「普通」という基準が壊れてきているのを感じました。「普通でなければいけない」という強迫観念のようなものから脱出できたと感じたのは、このときです。ただし、その頃にひきこもりから脱出したと感じたのは、今、振り返ってのことです。

 

Q

 石田くんは、とてもしっかりしていて社交的な感じに見えますが、不登校だった頃の自分と連続したかたちで今の自分があるのか、それとも、今の自分は当時と比べると大きく変わったのか。当時と今はどのようにつながっているのでしょうか?

石田

 中学生の頃の自分と現在の自分とでは、まったく性格が違います。ひきこもりを経て、どうして現在のような自分があるのかはわかりませんが、ひきこもりもひとつの社会経験のような気がします。たとえば、ひきこもっている間に続けていたネットゲームでも、人と出会って身の上話をしたり、オフ会にも一度だけ参加したことがありますが、そのとき親切に対応してくれた人もいました。つまり、ひきこもりながらも社会的なことを勉強していたような気がします。
 なぜかはわかりませんが、高校2年の頃からポジティブになってきて、学校行事でも先頭に立って活動するようになりました。台湾への修学旅行で姉妹校との交流会の際、数千人の生徒の前でお礼のあいさつをする役割を買って出たり、ひきこもっていたことの反動なのか、いろいろなことを吸収したり経験してみたいという気持ちが強かったのかもしれません。

小栗

 「ひきこもりもひとつの社会経験」というのは非常に重みのある言葉ですが、まさかネットゲームの相手と身の上話をしているとは、お母さんも思わないでしょうね(笑)。ネットという仮想現実のなかにも人とのかかわりがあり、学ぶことがあったということでしょう。

石田

 ネットの世界でのコミュニケーションは、顔が見えないから傷つけ放題とか言われますが、僕は逆に現実の人間関係に依存する(大切にする)タイプで、そのときはネットのなかの人間関係に依存していたわけですが、顔が見えない分、相手の表情を想像したりしてコミュニケーションをとっていたのかなと思います。

小栗

 もともと人間関係を大切にしたいという気持ちが強かったのが、ひとつのポイントかもしれませんね。だから、ひきこもっていたときはネットのなかでの人間関係を大切にしていたし、高校に入るときも定時制高校に行こうと誘ってくれた友だちがキーパーソンになっているし、人とのかかわりを求めて生きてきたことには一貫性があります。英語を学ぼうとしたのも、外国人とのコミュニケーションをとれるようになるためだったことからも明らかです。

 

Q

 ひきこもり状態から抜け出したいという積極的な思いはありましたか?

石田

 漠然とした不安がずっとあって、それには将来への不安も含まれていました。将来のことを考えると、ひきこもり状態から脱出しないことにはどうにもならないと考えていたので、何とかしたいとは考えていました。ただ、そんなことも考えられないほど落ち込んでいる人もいると思うので、ケースバイケースかなと思います。

 

 

 

 

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