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登進研バックアップセミナー87・講演内容
その登校刺激は彼らをどう変えたのか Part.1
2013年12月8日に開催された登進研バックアップセミナー87「その登校刺激は彼らをどう変えたのか」の内容をまとめました。
ゲスト:不登校を経験した2人の若者
講 師:小澤美代子(さくら教育研究所所長)
司 会:齊藤真沙美(臨床心理士)
※ゲストの方々のお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。
講 師:小澤美代子(さくら教育研究所所長)
司 会:齊藤真沙美(臨床心理士)
※ゲストの方々のお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。
登校刺激とは学校に関係するあらゆる情報や事物の総体
齊藤 | 今日のテーマは、ゲストお二人の不登校体験を通して、望ましい登校刺激のあり方を考えてみようという趣旨ですので、はじめに専門家である小澤先生に登校刺激の基本的なことについて解説していただこうと思います。 |
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小澤 | かつて、一時期ですが、登校刺激はよくない、登校刺激はしないで見守りましょうとする考え方が主流になったことがありました。ただ、ちょっと引っ張ってあげれば動けるようなお子さんでも、放ったらかしにしたままでいいのかという見直しの機運が高まり、適切な登校刺激は与えるべきではないかという考え方になってきていると思います。 登校刺激でいちばん大切なのは、お子さんの状態に合ったかかわり方をすることですが、状態を無視してガンガン引っ張って、1日や2日は登校できたとしても、長くは続かなかったりするわけです。そうしたことも少しずつわかってきて、では、望ましい登校刺激とは何かということが問題になってきます。 その前に登校刺激とは何かということですが、私は学校に関する情報だったり、親御さんの言動だったり、教科書やノート、学級通信やプリント類なども含めたあらゆる事物と考えています。もう少し具体的にいうと、「今日は学校に行くの?」「高校受験はどうするんだ?」といった直接的な会話はもちろんですが、もっと小さな間接的な話題、「今度、遠足があるらしいね」「校門の近くにあるイチョウの葉が黄色になって散りはじめていたよ」などでも、子どもたちにとっては相当の登校刺激です。 ところが、登校刺激のゆるやかさとか強さは、お子さんによっても違ってくるし、お子さんの状態によっても違ってきます。つまり、今ならちょうどいい登校刺激、今はふさわしくない登校刺激があるということです。 |
登校刺激は薬のようなもの
小澤 | 言葉を換えれば、登校刺激は薬のようなものだと思っています。つまり、正しい使い方をすれば驚くほどの効果がありますが、誤った使い方をすると副作用(害)に苦しむことになります。たとえば、まだ、お子さんが動けないのにギュウギュウ引っ張ったり、「まだ動けないのか!」と怒鳴ったり、引っぱたいたり…。そういうことをしても、動けないときは何の意味もありませんし、余計に傷ついてしまうだけです。血圧の低い人に降圧剤を投与したら生命の危機にかかわってきますよね。 一方で、登校刺激は正しく使えば、一目瞭然の効果が現れます。風邪をこじらせて肺炎になった場合、1〜2週間かけて自己治癒する場合もありますが、抗生物質を投与すれば3〜4日で症状は改善するわけです。登校刺激の場合もまったく同じことが言えます。 そうすると、いま、この子にどんな登校刺激が望ましいかを判断するために状態の見立てが大切になってきます。できれば、小さな変化が見つけられるように、お子さんがどんな状態にあるかをじっくり観察してみてください。そして、あれこれ試行錯誤をくり返しながら、登校刺激の引き出しをたくさん持てるといいですね。こうしたら拒否された、こうしたら受け入れてくれたといった経験を踏まえて、そのときそのときに合ったメニューを工夫しながら出していくことで、少しずつお子さんは元気になっていくんだとお考えください。 |
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高校が合わないと感じて昼夜逆転生活に
齊藤 | 小澤先生のお話を受けて、具体的に若者お二人の体験談を通して、登校刺激のあり方について考えていきたいと思います。それでは、ゲストお二人に自己紹介を兼ねて、不登校だった当時の家族構成、不登校になったきっかけ、不登校期間などについてお話しいただきます。まず、三田さんからお願いします。 |
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三田 | こんにちは、三田と申します。現在、大学4年生で、大学の近くのアパートで一人暮らしをしています。不登校になった高校1年のときは千葉の実家で生活をしていて、両親、父方の祖母、姉2人の6人家族でした。 不登校になったきっかけですが、2人の姉も中学受験をして進学したこともあり、私も自然な流れで中学受験をしたのですが、失敗してしまい、私立高校を受験して進学しました。その高校は母親が探して勧めてくれた学校で、入学試験当日に初めて校舎を見た状態で、母の言いなりに受け身的に進学したかたちでした。 ところが、その高校はとても校則が厳しく、入ったとたん自分には合わないと思ってしまうほどでした。先生も上から目線で話しかけてくる感じで、すぐに学校に行くことが嫌になってしまったわけです。同時に逃げ道を探るようにオンラインゲームにはまってしまい、部屋から一歩も出られない状態になり、高校には2カ月しか通っていません。その後、翌年の9月までひきこもり生活が続きました。 |
齊藤 | 次に藤井さん、よろしくお願いします。 |
藤井 | はじめまして、藤井紀子と申します。よろしくお願いします。現在は小学校の相談員をしています。来年から大学院で心理学を勉強することになりました。当時の家族構成は、両親と歳の離れた妹2人の5人家族でした。 不登校になったきっかけは、小学校3年生のときに転校をした際、新しい環境になじもうと頑張ったんですが、なかなか難しかったことがひとつです。さらに、7つと8つも離れた妹2人が年子で生まれるまでは、専業主婦の母を独り占めするような生活を送っていましたが、妹たちが生まれてからは、急にお姉ちゃんなんだからしっかりしなさいと言われ、半分は母親、半分は姉といった立場をとらざるを得なくなりました。 小学校6年生からはいじめも受けるようになり、クラスのボス的な女の子に嫌われてしまい、男の子を使って追いかけ回されたり、持ち物を隠されたり、座布団にマジックで「死ね」と書かれたり…。担任の先生に相談したところ、「お前も何か恨まれるようなことをしたんじゃないか?」と言われ、それ以降は相談する気もなくなってしまい、「死にたいなあ」と思うときもありました。小学校6年生になって、複式学級に通うようになって、半年くらいは登校できたのですが、その後、中学校に進学してから、また不登校になってしまいました。この複式学級とは現在の特別支援学級だと思いますが、発達障害の子どもたちが6人くらい通っていて、自分のクラスに入りづらい子どもも受け入れてくれる教室でした。 |
母から泣きながら「(不登校の世界から)帰ってきてよ」と言われて
齊藤 | 次に、不登校になった直後の気持ちとご両親の対応について、藤井さんからお願いします |
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藤井 | 不登校になった直後の気持ちは、自分がなぜ学校に行けないのかがわからない状態で、毎日、嵐の中にひとりでいるような感じでした。学校に行かないという選択肢が私にも母にもなかったので、母からは「もう大丈夫だから行きなさい」と無理やり登校させられたりもしました。 その頃は、私も母もこれ以上ないくらい荒れに荒れて、お互い大泣きしながら怒鳴り合う地獄のような日々が続きました。たとえば、トイレに入ろうとする母をつかまえて、自分の気持ちをしゃべり続けたり、あるいはキレて暴れて部屋にこもったりのくり返しでした。とくに印象的な体験としては、ある日、母が私の両肩をつかんで泣きながら「帰ってきてよ」と大声で言われたことが忘れられません。そのシーンは今でも鮮明に覚えています。実際に荒れていた時期は、せいぜい3週間程度だったようなんですが、私の印象だと半年間くらい続いたような気がしていました。 父は仕事が忙しくて、ほとんど家にいない人だったので、あまり好きとか嫌いとか考えたこともない存在だったのですが、父は私の不登校の原因は、私と母の仲が悪いからだと思っていたようで、私を母から離そうとして私を母の実家で生活させようとしたり、母を実家に帰らせようとしたり…。実は私が嫌いだったのは父だったので、この人は何もわかっていないんじゃないかと思っていました。確かに母とはケンカをすることは多かったけど、それは母に対しては自分の気持ちを表現できることの現れだったのに、父はそれを誤解していたのでしょう。父が仕事から帰ってきて、玄関の鍵を開ける音がすると、母とのケンカを中断してでも二階の部屋に逃げるような生活をしていました。 |
三田 | 不登校になった直後は、もうあの学校に行かなくて済むんだという解放感にあふれ、毎日が楽しくてしかたなかった。それまで、中学受験とか、いい高校に進学するんだとか、母の価値観のなかで生きてきて、それらからも解き放たれたような感じがしてうれしくて…。ただ、解放感に浸っているうちに、オンラインゲームにはまってしまい、朝方までやり続けて、明るくなったら寝て、昼すぎぐらいに起きて、「笑っていいとも」を見て適当に時間をつぶして、また夜になるとオンラインゲームをやるというくり返しでした。 不登校になり、ある程度の時間が過ぎると、今度はとても不安な気持ちになってきました。どんどん過ぎていった時間が戻ってこないんだということが不安になってきて、毎日のように「死にたい」と思ったり、怒鳴ったり、親に当たったり、風呂場で叫びまくったりして、近所から苦情が来たりもしました。 父については、ほぼ不登校については無関心という感じでした。関心があったのかもしれませんが、実際にかかわってはきませんでした。私も父を怖い存在だと思っていて、かかわり合わないように避けながら生活をしていました。母は「今日は行かないの?」と柔らかく接してくれる感じだったのですが、最近、当時のことを確認したところ、「学校に行きなさい」と強く背中を押したこともあったそうです。 |
「俺たちってダメだよなあ」とこぼした夜中の公園
齊藤 | 不登校中はどんな生活をされていたのでしょうか。家族との会話や食事、外出の有無、お友だちとの関係、インターネットやゲームとのつき合い方に加えて、生活リズム(昼夜逆転)などについても教えてください。 |
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三田 | 母は最初、厳しく対応をしてきたのですが、やがて私が話しかければ返してくれるほかは、何も言わなくなってしまいました。考えてみれば、私が自分から勝手にからんでいって、罵倒したり、「死ね」とか「どっかへ行け!」とか叫んだりするわけですから、母としては何も話したくなくなるのも無理もありません。二人の姉は不登校については何もふれずに、フツーに接してくれて、とてもありがたかったです。食事については、家族がバラバラにとっている状態で、姉も出かけていることが多く、父も自営の不動業でマイペースで仕事をしていたので、食事面で一家団欒という時間はほとんどありませんでした。 学校に行っていない自分が真面目に学校に通っている友だちとかかわっていいのかという劣等感があり、中学校時代の友だちとは、ほとんどかかわりがなくなっていました。ただ、近所に同じように高校入学後に不登校になった友だちがいて、昼間に出歩くと学校に通っている知り合いとバッタリ会う可能性もあり、夜中に公園などに集まって、「俺たちってダメだよなあ」「こんなことしてていいのかよ」「死んだほうがいいんじゃないか」といった話をしながら、お互い慰め合うようなグチをこぼしていました。 ネットやゲームについては、ほとんどつけっぱなし状態で、オンラインゲームの知り合いと仲良くしたり、夢中でやっていました。そのときの私にはかけがえのない存在だったと思います。そのため、実生活よりネット上の虚構の生活のほうが大切に思えていました。こんな状態ですから、生活リズムはグチャグチャで昼夜逆転は当たり前で、昼と夜の区別もつかず、何月何日かもわからない状態で、ふとカーテンを開けたら夜だったりとか、そんな生活でした。 |
齊藤 | お母さんは三田さんが話しかけたら対応してくれる感じだったようですが、お母さんに自分から話しかけて自分から罵倒するという話がありましたが、今振り返ってみて、そのときはどんな気持ちだったのでしょうか。 |
三田 | それは母に話しかけるというより、自分の気持ちをぶつけているようなものですね。実際は現実から逃避をしているのに、現実逃避を認めたくない状況のなかで、外にも出られない自分にとって、発散する唯一の方法は、母に当たるしかなかったのだと思います。 |
齊藤 | 藤井さんにも不登校中の生活について、お聞きしたいと思います。 |
藤井 | 最初の頃は、外で近所の同級生と遊ぶこともありましたが、外に出てると買い物中の友だちのお母さんを見かけることがあり、そうなると走って帰ってくることをくり返しているうちに、だんだん外に出られなくなってしまいました。夕方は夕方で同級生が帰ってくる時間なので、また夜は小学生なので外には出られないということで、ずっと家の中にいるようになりました。 不登校中に家族と一緒に食事をしたいという気持ちはありましたが、学校に行かないでケンカばかりしている自分が母と食事をするのが悪いような気がして、一緒に食べるのが苦痛で、ひとりで冷蔵庫にある物を適当に食べていました。 ゲームに関しては、「牧場物語」という荒地をひたすら開拓して、作物や動物を育てて牧場を作るゲームにはまっていました。1日に10時間とかやっていましたが、いま考えてみると、そうしたのんびりした時間は自分が求めていたもので、自分にとっては癒しだったかなと思います。生活リズムは朝の4時頃に寝て、夕方の4時頃に起きる生活を小学校5年の頃に続けていました。そうした生活を続けていると頭も体もだるくなり、なかなか生活リズムを変えるのは難しいなと思っていました。 |
昼夜逆転だから学校に行けないのではない
小澤 | いま話題に出た昼夜逆転の問題ですが、よく昼夜逆転になるから登校できないと考えがちですが、それはほとんど間違いです。人間の生活リズムは放っておくと少しずつズレていくようにできています。それを改善しようとして、朝に揺り動かすとか、寝床から引きずり出したりしますが、そのため親子で取っ組み合いのケンカになったりします。そうした対応をしても昼夜逆転は治らないでしょう。つまり、学校に行くことができないから起きられないのであって、昼夜逆転だから学校に行けないのではないことをご理解いただきたいと思います。 じゃあ放っといていいのかということになりますが、私の感覚では、学校に行くとか、友だちと約束をしているとか、何か目的があれば簡単に治ってしまうと思っています。実際、高校入試の日とかは、一睡もしないで受験に行ったりするわけですから。昼夜逆転を急に治そうとすると、家庭内暴力などのトラブルが起こる危険性もありますから、注意が必要です。目安としては、お昼過ぎまで起きられるようになれば、まあまあかなと考えたらどうでしょうか。とりあえず、昼食ができたら一旦起きて、食べてまた寝たらといった対応が妥当な線かもしれません。 大変な思いをしている時期のお子さんの言葉は、そのまま額面通りに受け取らないほうがいいかもしれません。お二人ともお母さんに八つ当たりして、傷つくような言葉を投げつけたりしているわけですが、実はそれは、自分に向かって言っているわけですよね。お父さんは、「よく親に向かって、そんなことを言えるな」と逆上されることも多いのですが、一方でお母さんは、一所懸命育ててきたのに、三田さんのように「お前のせいでこうなったんだ」など、誹謗中傷のようなことを言われると、傷ついたりするわけです。そんなときは、本人が自分に向かって言っているんだと思って、ドーンと構えて聞き流してあげてください。 今はあんなことしか言えないんだ。それだけつらいんだろうなあと受け止めてあげたほうがいいと思います。それをいちいちまともに受け止めて、傷ついたり、謝らせたりする対応は、あまり事態を好転させることにはつながないような気がします。 |
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齊藤 | お母さんに八つ当たりをしていた頃、三田さんは上のお姉さんからお手紙をいただいたというエピソードがあるようですが、紹介していただけますか。 |
三田 | ひきこもりはじめてかなり経ってからの話ですが、自分としては荒れに荒れた生活を続けていて、この生活を変えるきっかけやチャンスのようなものは何もないと思っていたとき、それまで自分の不登校については無関心のように見えて、フツーに接してくれていた上の姉から突然、手紙を渡されました。手紙の内容は、「このままじゃダメなんじゃないか。きみもつらいかもしれないけど、誰にだってつらいことがあるのに頑張っているわけで、きみにとってもっと望ましい生活のあり方があるのではないか。外に出るチャンスがあるなら、出ていく方向で考えたほうがいいのではないか」といった内容でした。それまで何気なく接してくれていた姉から手紙をもらって、自分のことを心配してくれてたんだなあとうれしかったです。結果的には、この手紙も不登校から抜け出すきっかけのひとつになったのかなと思います。 |
ある日突然、父が自分の部屋に怒鳴り込んできて…
齊藤 | 続いて、ご両親との関係、ご家族の接し方で嫌だったこと、うれしかったことなどについてお聞かせください。こうしたことは渦中にある親御さんが、なかなかお子さんに聞けることではありませんし、結果論でもとても気になることだと思います。 |
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藤井 | 母には自分の気持ちを表現できる一方で、修羅場のようなこともしばしば起こりました。父とは会話のない状況が続いていましたが、とくに嫌だったエピソードとしては、父が占い師にはまってしまい、水道の蛇口の位置が悪いから私が不登校になっていると言われたようで、わざわざ水道の蛇口の位置を変えたこともありました。さらに、子どものときに亡くなった父のお兄さんの供養をちゃんとしていないから、霊が乗り移って暴れて出して不登校になっていると言われ、父も信じこんでしまったことがありました。 その頃には、私は自分の気持ちで学校に行けないことはわかっていたので、自分なりの表現であることもわかっていました。毎日、必死の思いで学校に行けないと言っているのに、父は訳のわからない問題にすり替えてしまったことが、私自身としっかり向き合ってくれていないじゃないかと思えて、とても嫌だった出来事です。 小学校6年生の夏から複式学級に通うようになってからは、いつも面と向かっていた母と離ればなれになる時間ができたことで、お互いに余裕が生まれ、一緒にテレビでアニメを見たりできる関係になってきました。印象的だったのは給食費のことで、私が不登校になっても小学校を卒業するまで給食費を払いつづけてくれたようです。学校からは止めてもいいですよと言われてたようですが、給食費の支払いを止めてしまうと二度と学校に行かないんじゃないか、学校に見捨てられてしまうような気がしたそうで払いつづけていたそうです。でもそれは、母にとって失望のくり返しだったと思います。 ただ、中学校に進学して、夏頃にまた行けなくなってしまったときには、あっさりと給食費はストップしました(笑)。中学校に入った頃は母の気持ちも少し安定してきて、母からある日、「給食費、どうする?」と聞かれて、しばらく行けないことはわかっていたので、「止めていいよ。お金がもったいないし」と言ってストップしてもらいました。 そのことは、私がしばらく学校に行かないことを母が認めてくれた瞬間でもあったかと思います。そのことで、とても安心することができました。さらに、中学校2年生の6月に地域の適応指導教室に行ってみないかと母か勧めてくれたことも、大きな転機になるうれしい出来事でした。 |
齊藤 | 三田さんには、とくにお父さんとのかかわりについてお話しいただきたいと思います。 |
三田 | 私と父との関係は、ほとんど接点がない状態が続いていたのですが、ある日突然、父が私の部屋に怒鳴り込んできて、寝ている私を叩き起こして、「おまえは何をしているんだ。おまえはこんなところにいるからダメになるんだ。どうにかしろよ。何とかしてくれよ、頼むから」と大声で怒鳴られたわけです。私はオドオドして萎縮するばかりで、怖くて父の目を見ることもできずに下ばかり見て泣きじゃくっていました。そんな父が立ち去り際に「頼むからしっかりしてくれよ」と泣き声のように叫んだわけです。私にとっては威厳のある父の弱々しい声を聞くのが初めてだったので、とても驚きました。だからといって、すぐ不登校から抜け出そうという気持ちにはなりませんでしたが、ただただ怖かったのを覚えています。 その後、部屋にいた私を姉が呼び出し、トイレにいる父の姿をのぞき見るように言いました。すると、父が便座にしがみつくようにして泣き言を言っていました。「俺のせいでこんなことになってしまったのか。俺はこいつらのために何もしてやれなかった。何がいけなかったんだ?」と泣きまくっていました。このとき、初めて父の涙を見ました。こんなにも父のメンタルはボロボロになっていたのか。怒られるより泣かれるほうがずっとつらいと感じた体験でした。それが私にとって、不登校から抜け出す大きなきっかけになったことは確かです。 |
ターニングポイントとなったお姉さんからの手紙
齊藤 | お二人のお父さんとの関係を含めて、ご家族との関係でお気づきの点がありましたら、小澤先生にお聞きしたいと思います。 |
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小澤 | 不登校の間、子どもたちはずっと家にいるわけですから、家族とのかかわりはいろんな面で影響を与えるもわけです。一般的にお父さんは外で働いていますから、社会常識のようなものを重んじるなかで、学校は行くべきなんだ、行かない選択肢はないといった考え方をすることが多いと思います。そのため肩肘張って、なかなか子どものつらさに寄り添うことができないのがフツーだと思います。 それができるというケースはほとんどないので、どうしても行かなくなった当初には、どの家庭でもガタガタといろんな出来事が起こり、なかなかお父さんから譲歩してくれることはありません。それはしかたのないことだと思います。 一方、お母さんの場合は、朝から晩までお子さんと一緒にいることが多いので、お子さんの状態を知りながら、お子さんの気持ちに少しずつ近づいていき、理解も深まっていきます、しかし、お父さんの場合は、時間的にも物理的にもお子さんをじっくり見ている機会が少ないので、なかなか理解することは難しいというのが一般的なところだろうと思います。 ただ、お子さんからすれば、きちんと自分と向き合ってほしいという気持ちをもっているわけです。先ほどの藤井さんのように占いなどでほかのものと問題をすり替えられることは不本意なことだと思います。まさにわかってくれていないと。 これだけ、あれこれ手を尽くしても学校に行かないということは、よほどのことがあるんじゃないかと、お子さんのつらさを真正面で受け止めてあげることが大きな課題ではないかと思います。三田さんのお父さんのように、そんなこととは関係なく、子どもが勝手に成長して出て行ってしまうこともありますが、たいていの家庭では、そうした課題にぶつかり、お父さんはお父さんなりの悩み方をして、泥酔して弱音を吐いてみせることもあるわけですが、それまでのプロセスのなかでは、お父さんなりのつらい日々あるわけですが、それはなかなか子どもには見えないわけです。そのため、極限的な状況のなかでエピソード的に見えてくるのが一般的かもしれません。 もうひとつ、お子さんの不登校について、親戚にも内緒にしているケースがとても多いんですが、親の見栄とか世間体を優先して、お子さんを無理に行かせたり、不登校はみっともないでしょう、恥ずかしいでしょうという考え方が前面に出てしまうと、お子さんとしては、自分がこんなにつらい思いをして学校に行けないのに、自分のことより世間体のほうが大事なんだと思って、親子関係が悪化していくことにつながっていきます。 最後に普段はなんの関心もなかったように見えていた三田さんのお姉さんが手紙をくれたことで、実は心配してくれていたことがわかると同時に、陰で支えてくれていて、味方になってくれていたことを確信できたことから、ターニングポイントになっていくことはありうると思います。つまり、家族の一員として支えてくれていると実感できたときに、そこから状況が好転していくことは、多くの事例も証明しています。 ただ、そこに到達するまで数カ月かかったり、2〜3年かかる場合もあります。あるいは、そのターニングポイントまでなかなか到達できないケースもありますが、重要なのは、お子さんとしっかり向き合っているかどうか、親自身のあり方が問われてくるような気がします。親子共々つらい時期ですが、そこを通り抜けると次のステップに進めると考えてください。 |
家族の役に立っているという実感と手応え
齊藤 | 藤井さんは小学校6年生のときに複式学級で過ごしたあと、中学校に入学して再び不登校になってしまうわけですが、中学校生活はどんな感じでしたか。 |
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藤井 | 中学校は顔見知りの同級生がいない学区外の公立中学校に入学しました。1学期はなんとか通えたのですが、夏休み明けからまた行けなくなってしまいました。小学校のときは、行きたくない、絶対に外に出たくないという感じだったのですが、中学校のときはなんとなく行けなくなった感じでした。せっかく学区外の中学校に入学したのだから、生まれ変わったつもりで頑張らないとという意識が強すぎたことがネックになってしまったのかもしれません。「普通のルートに乗らなきゃ」という気持ちがとても強かったので、いろんな子に話しかけて友だちをつくって、勉強も部活も委員会も頑張って、自分も変わったんだと思い込みたかったし、その姿を母に見せたかったという気持ちもありました。 昔から完璧主義というか自分への要求水準が高いところがあって、自分はもっともっとできるし、もっと頑張らないといけないと思って、自分が自分にプレッシャーをかけて、追い込んでしまうところがあり、過剰適応になりがちで、頑張り屋でいい子で完璧な子と思われたかった。長女という面もあったかと思いますが、それでまた息切れを起こしてしまったわけです。 小学校のときはいじめが理由のひとつになっていたけど、中学校では入学する学校についても配慮をしてもらったのに、また行けなくなったのは、自分に不登校の要因があるんだと突きつけられた感じでショックでした。 |
齊藤 | 中学校で行けなくなったとき、ご両親の対応はどんな感じでしたか。 |
藤井 | 母は最初のときのように混乱することもなく、登校刺激もしませんでした。母とは日常的にもよく話をして仲良しのような感じだったのですが、その頃、父もあまり学校のことに口出しすることもありませんでしたが、ひとり仲間はずれのような状態になっていました。父は基本的に自分の仕事や趣味領域のことしか話さない人で、子どもとしては何を話しかけたらいいのかわからない感じでした。たまに話しかけてくるときもありましたが、機嫌をとろうとしているんじゃないか、そんな手に乗るかと疑心暗鬼な気持ちで接していました。わが家は三姉妹で男は父ひとりなので、ちょっとかわいそうな面もありますが。 |
齊藤 | 中学校時代、外出はできるようになっていましたか。 |
藤井 | 親からの登校刺激はなくなっていたのですが、自分のなかにはいつも学校に行かなきゃという気持ちが強く、つらい状況は続いていました。しばらくして、生活リズムが崩れているなりに安定してきた頃に、少しずつ外出できるようになってからは、近所の100円ショップに毎日通って、ちょっとした雑貨や文房具をなどを買ってくるのが日課になっていました。それは、適度に自分ひとりの時間を楽しみながら外に出るという意味で、プラスになったのかなと思います。 もう少し元気になってきてからは、スーパーに買い物に行くことにも抵抗がなくなり、母の代わりにポイントカードを持って買い物に行き、ポイントを貯めることに夢中になったこともありました。どっちの店で買ったほうが安いとか、ポイントの還元率が高いとか考えながら買い物をしているうちに、自分もやっと人(家族)の役に立っているんじゃないかと実感できるようになり、うれしかった。 その頃から昼夜逆転はあったものの、昼頃には起きられるようになっていました。母もカウンセリングを受けていたこともあり、口先だけではなく、本心から「学校に行かなくてもいいよ」と思っていることが伝わってきて、気持ちが楽になってきました。ただ、父方の実家には私の不登校を秘密にしていたことが私のなかでひっかかっていたことで、私のことが恥ずかしいのかなという思いがあったので、父とはなかなか打ち解けることは難しかったです。 |
先生の手書きプリントも登校刺激のオーラを発していた
齊藤 | 藤井さんは公立中学校に入学したわけですが、不登校といえども中学校3年生になると、高校受験をどうするかが問題になってきますが、中学校時代に勉強はどのようにしていましたか。 |
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藤井 | 適応指導教室に通いはじめたのが中学校2年生の6月からですが、そこはとくに勉強をするところではなかったので、中学校1年生から中学校3先生の夏休み明けまでは、ほとんど勉強はしませんでした。担任の先生がよくプリントを封筒に入れて持ってきてくれたのですが、先生の手書きのプリントが学校のイメージに直結して、とても気持ち悪いものに思えました。「先生が書いたプリントなんだなあ」「これでみんな勉強しているんだなあ」と思うと教室の風景を連想してしまい、どうしても触る気がしませんでした。まして、封筒に「藤井さんへ」と書かれたりすると余計に拒否感が強くなってしまって…。別に先生のことを嫌いなわけではないのですが、やはり学校というイメージを想起するという意味でダメだったんだと思います。 その一方で、漢字検定や英語検定などは学校の勉強とまったく関係ないので、とても興味があり、中学校2年生のときに漢字検定準2級を取得したりとか、慶弔マナーや敬語について勉強する常識力検定に挑戦したりしていましたが、学校の勉強はいっさいやりませんでした。 |
小澤 | まさに学校の手書きプリントというのは、登校刺激の象徴のようなもののひとつでしょうね。この段階では、学校とイメージが結びつくプリントでさえも気持ち悪く感じてしまう。登校刺激のオーラが押し寄せてくるような感じを受けるわけです。同じ登校刺激でも、お子さんの状態や時期によって受け止め方は違ってくるわけですが、このときは藤井さんにとって、学校の手書きプリントは登校刺激の権化のように感じて、手にするのも嫌だったということでしょう。 |
齊藤 | 大人側が登校刺激と思っていなくても、お子さんにはすごい登校刺激として感じてしまう場面があるのかなと思います。藤井さんのように学校の学習には取り組めないけど、それ意外の漢字検定や英語検定などは受けたいという知的好奇心が出てくる時期というのもあるはずです。そんなとき、漢字検定や英語検定などはとてもスタンダードなものですが、そのほかにも数学検定やアロマ検定などを受けたお子さんもいらっしゃいました。また、ロボット教室に通うとか、クッキングスタジオ、スポーツジム、スイミングスクールに行ってみるという選択肢もあります。そこで、安心して学べたという体験が次のステップにつながったり、自信になることもあるので、場合によっては功を奏することになると思います。 次に登校刺激と深く関係のあることですが、お二人が動き出すきっかけになったことについて、具体的にお話しいただきたいと思います。 |
メンタルフレンド、学校見学、適応指導教室という登校刺激
三田 | 父が泥酔したこととか、姉からもらった手紙のこともあり、そろそろ外に出なければいけないという気持ちになっていました。しかし、外に出ることには強い不安があり、何から始めたらいいのかわからない状況でした。そんなとき、母が派遣依頼をしてきたメンタルフレンドと一緒に週1回、外に出る練習を始めたわけです。それは、学校に行くためのものではなく、単純に外に遊びに連れて行ってくれるという感じのものでした。 その後、年が明けて留年が決定して、そろそろ動き出さないとヤバいなと思いはじめた頃、同じように不登校をしていた友だちが定時制高校に通いはじめたこともあり、自分も高校に行かないといけないなあと…。そんなとき、母が車で実家のある千葉から都内のサポート校を見に行こうと言ってくれました。学校見学ひとつとっても、その学校に通っている人たちから見られるのもイヤだし、面倒くさいなと思っていました。そんな気持ちを見透かされるように、母は「車でその前を通るだけだから」と本当に通り過ぎただけでしたが、連れていかれたわけです。 そもそも中学校時代の同級生と会うかもしれない地元の新しい高校に行くのもイヤだったし、今まで籍を置いていた高校に戻るのは、なおさらイヤだったので、やり直すなら心機一転、まったく知らない遠いところにある高校に行きたいと思っていました。そんな私の気持ちを汲み取って、母は学校然としていない、都内の小さなサポート校に連れて行ってくれたのだと思います。それはとてもありがたかったし、こうした小さい規模の学校のほうが自分には合っているかもと思うようになったのです。そのことが動き出す大きなきっかけになりました。 |
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齊藤 | いま三田さんからメンタルフレンドの話題が出ましたが、簡単に説明したいと思いますが、さまざまなかたちでメンタルフレンドを派遣する事業が展開されています。公では都道府県単位で実施しているところもあれば、市町村単位で行っているところもあり、教育センターや児童相談所など相談を担っている機関から派遣されるわけです。だいたい18歳以上30歳未満という年齢制限でメンタルフレンドの募集が行われていて、多くは心理学やカウンセリングを学んでいる学生・大学院生か、教員をめざしている学生・大学院生がメンタルフレンドに登録しています。保護者から派遣要請があった場合、男のお子さんには男性のメンタルフレンドがつくことが多いと思いますが、どういう方なら合いそうかとか、どういう活動ができそうかとかをチェックしたうえで面接をして、派遣を決定するという流れになっていると思います。 メンタルフレンドは、家庭教師とは違って、学習の面倒をみるという活動はしませんが、一緒に遊んだり、話し相手になったりすることで、心の支えになる存在と考えたらいいかなと思います。今は民間の相談機関やNPO法人などでもメンタルフレンドの派遣を行っているところも増えていますが、それぞれ特徴があるかと思いますので、ニーズに合わせた活用を考えられたらいかがかなと思います。 では、続いて藤井さんの動き出すきっかけについて、お話しください。 |
藤井 | いちばん大きなきっかけは、適応指導教室に通うようになったことです。母は当初から、中学校に入学しても行けないようだったら、適応指導教室を勧めようと思っていたようで、「こういうところがあるんだけど」と言われて見学に行って、中学校2年生の6月から通うようになりました。通うといっても行ったり行かなかったり、午後に行ったり、早めに帰ってきたりとバラバラでしたが、当時は他人と一緒に食事をすることが難しかったので、個室でおにぎりを食べたりしていました。 そこでは月に2回、市民体育館を借りて、遊んだり、スポーツをしたりする時間があり、遊んだあとに自然と輪になって座り、学校であったイヤなこと、親に言われてイヤだったこと、先生に言われて傷ついたことなどを話しているうちに、何となく自分の気持ちを話せるようになり、その場が楽しいなと思うようになってから、毎日、通うようになりました。それまでは、家の中で母と一対一の関係の中にいたわけですが、自分と同じような経験をしている子たちとの出会いがとても新鮮でした。 年2回の宿泊行事も楽しく、みんなでカレーを作ったりとか、自分が抱えている親に対する罪悪感とか、学校に対するマイナスイメージとか、みんなで朝まで話すなかで、自分が誰かの発言に支えられているように、自分の発言も誰かの支えになっていることを感じるようになりました。子ども同士の自助互助グループのような側面もあったかと思います。そこでの、初めて人生の心の居場所を手に入れたような体験が動き出すきっかけになったと思います。 |
齊藤 | ここまで、お二人の体験談をお聞きになって、それぞれ異なった状況ですが、親御さんの対応、登校刺激のあり方などの視点からどうだったのか。小澤先生にコメントをお願いします。 |
小澤 | まず、藤井さんの印象としては、ご自分でもお話ししていましたが、過剰適応の傾向があり、完璧でないと気が済まない性格だということですが、それは基本的にはいいことだと思います。もっともっと向上していこうという気持ちの現れですから。ただ、それが自分のキャパを超えてしまうと、パンクしてしまうというか、バーンアウトしてしまうことを、つらかった長い不登校経験のなかで自分なりに気づいたということでしょう。今後、社会に出たり、家庭をもったりしたときに、どんなときにも過剰適応していくことは無理なので、そうした傾向性をコントロールする術を身につけたことは、大きなプラスだったと思います。 三田さんの場合は、高校生になってからの不登校ということで、雰囲気としては思春期特有の権威や強いもの、抑えつけるものに対する反発といったものが根底にあるのかなと思います。強力な権威のようなものに出合わなければ、不登校というプロセスを経なかったのかもしれませんが、高校入学と同時に強力な壁に突き当たってしまったわけですから、そのリアクションとして不登校という選択をされたのだろうと思います。 お二人の親御さんにはお会いしていないので、あまり軽々しいことは言えませんが、いろんな試行錯誤を経ながら、かなり苦しまれながらも、しっかりお子さんの現実と向き合おうとしていたのではないかと思います。 |
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