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登進研バックアップセミナー92・講演内容
「学校に行く」という常識をどう超えるか Part.1
2015年1月25日に開催された登進研バックアップセミナー93「不登校―『学校に行く』という常識をどう超えるか」の内容をまとめました。
ゲスト:不登校を経験した3人の若者
講 師:海野 千細(八王子市教育委員会学校教育部教育支援課相談担当主任)
助言者:荒井 裕司(登進研代表)
司 会:齊藤真沙美(東京女子体育大学・東京女子体育短期大学講師)
※ゲストの方々のお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。
講 師:海野 千細(八王子市教育委員会学校教育部教育支援課相談担当主任)
助言者:荒井 裕司(登進研代表)
司 会:齊藤真沙美(東京女子体育大学・東京女子体育短期大学講師)
※ゲストの方々のお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。
「いい子でいなければ、親に見捨てられるのではないか」
齊藤 | 今日は、3人の若者の不登校体験を聞きながら、「『学校に行く』という常識をどう超えるか」というテーマに迫ります。3人の体験談に加え、講師の海野先生、助言者の荒井先生の感想や解説も交えつつ、親に必要とされる対応のあり方についても考えてみたいと思います。 まず、最初に3人のゲストに自己紹介と不登校になった時期と期間、不登校のきっかけについてお話しいただきます。高見さん、安藤さん、井手さんの順にお願いします。 |
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高見 | はじめまして、高見知恵と申します。現在、大学1年生で19歳、両親と弟の4人家族です。私は中学受験をして、私立中高一貫校(女子校)に入学しましたが、中2の3学期は3カ月間で登校したのは1カ月足らず、中3の11月から卒業までは完全に不登校でした。 きっかけは、中1の頃から女子特有の陰湿ないやがらせをずっと受けてきたことでした。入学した学校は、幼稚園から短大まであるマンモス校で、中等部には小学校からの内部進学者が半分くらいいる状況だったので、クラス内にグループが出来上がっているところへ中学からの新入生が入っていく感じでした。当時の私はおとなしくて暗い感じだったので、クラスの中心になっていたイケイケグループに目をつけられ、陰湿ないやがらせを受けるようになったんです。私のほかにも何人か同じ目にあっていたと思います。 学校に行くのが嫌になって、学校にも相談したのですが不登校生の対応に慣れていない感じでした。中2のときの担任は、毎日家に電話をしてきて、「今日はどうしたの?」「明日は来るよね?! 来るよね?!」としつこく確認してきました。翌日も行かないと、「来ると約束したのに、どうして来ないの?!」と責められます。こんなことのくり返しで、家にいてもゆっくり休めず、よけいに行く気になれませんでした。 小さい頃から両親は共働きで、物心ついた頃には親戚の家に預けられていました。そのせいか、幼稚園の頃から「いい子にしていないと親に見捨てられるのではないか」という不安がつねにあり、「いい子でいなければ」という思いが強かったと思います。素の自分を出すことはなく、いつも仮面をかぶっていました。それがストレスになり、疲れてしまったことも不登校の要因のひとつかと思います。 |
安藤 | こんにちは、安藤雅弘と申します。現在、大学4年生で22歳。4月から就職が決まっていて、SE(システムエンジニア)の仕事をすることになっています。両親と妹の4人家族です。 私立中高一貫校に入学したのですが、中1のときに文化祭が終わった10月から行けなくなり、途中、保健室登校をした時期もありましたが、中3まで不登校状態でした。それでもなんとか中学校は卒業できましたが……。 きっかけは、中学受験による“燃え尽き症候群”だったのかなと思います。中学受験は自分にとっては大変なことだったし、かなりの進学校だったので入学後も受験時と同じようなペースで勉強する必要があり、精神的にも肉体的にももたなかったという感じでした。 直接的には朝起きられなくなったのですが、勉強が嫌になってきて、学校に行きたくないと思いはじめていたので、それで起きられなくなったのだと思います。始業時間に間に合う時間に起きられないと、「朝からきちんと登校しなければ意味がない」と思うタイプなので、遅刻して途中から行くくらいなら、その日は休もうということになってしまう。それが続くと、そのこと自体が嫌になって行けなくなりました。クラスメートに冗談ぽく、「ちょっと休みすぎじゃないの?」と言われて、みんなそう思っているのかなと、それもすごく心にひっかかりました。 |
井手 | 井手洋子と申します。よろしくお願いします。24歳で事務職の仕事をしています。両親と妹2人の5人家族です。 不登校の期間は、小5から中3の卒業までです。小3の夏休みに転校して、–小3、小4と普通に通い、クラスの中心になるような活発な子どもでしたが、早く新しい学校になじんで親を安心させようと頑張っているうちに、小5の6月頃から体調をくずし、とうとう息切れを起こした感じでパタッと行けなくなりました。 私には7歳下と8歳下の年の離れた2人の妹がいます。小1までは親にベッタリ甘えていたのに、2人が生まれてからは急に姉としてしっかりしなければいけない状況になり、親にも甘えられず、学校で相談できる人もいなくて孤立無援の状態でした。小4からは陰湿ないじめもありました。クラスのボス的な女の子に嫌われて、男の子を使って追いかけまわされたり、持ち物を隠されたり……。座布団にボンドで「死ね」と書かれたときは先生も帰りの会で話題にしてくれましたが、クラス全員の前で「何か恨まれることでもしてるんじゃないのか?」と言われたときはショックで、つらくて苦しくて地獄みたいでした。 いじめのこともあったので、中学校は顔見知りのいない学区外の学校に入学しました。1学期はなんとか頑張って通ったものの、中1の夏休み明けから息切れのような感じで、また行けなくなってしまいました。 |
「帰ってきてよ!」という母の言葉が忘れられない
齊藤 | 不登校になった直後の気持ちと、ご両親の対応について教えてください。 |
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高見 | 私は「学校は行くものだ」という意識が強くて、サボるなんてありえないと考えていたので、「行かなきゃいけない」「でも行けない」という状態にすごく葛藤がありました。夜10時から好きなテレビドラマを見て、それが終わってニュース番組が始まると、「ああ、また明日が始まる……」と絶望感に打ちひしがれていました。寝るとあっという間に明日が来てしまうので、わざと起きている時間を延ばしたりしました。だから午前中に起きることはめったになく、「笑っていいとも!」と同時に起きるような生活でした。 母は毎朝「行きなさい」の一点張りで、私は「いやだ」と抵抗してバトルをくり返していました。母は人一倍世間体を気にするほうで、私の行きたくない気持ちを理解してもらえないことがつらかったです。 父とは仲が悪いのですが、それは私の中学受験がきっかけでした。母が中高一貫の女子校に惚れ込んで、そこへ行かせたいと強く主張するのに対して、父は「中学までは地元でいい」という考え方でした。私は、同じ小学校の男子たちと一緒の中学校に行きたくなかっただけで、別の地域の学校なら公立でも私立もよかったのです。 最後は父も納得し、私立中学に入学させてくれましたが、不登校になったときは「お金を払ってやっているのにどうして行かないんだ」「やっぱり地元の公立中のほうがよかったんだ」と何度も言われました。母ほどではなかったにしろ、たまに私の部屋をのぞいて、口には出さないものの、「また学校に行ってないのか」みたいなオーラを出されることにストレスを感じていました。 |
安藤 | 私の場合は、不登校になってスッキリした感じでした。中学受験の準備の頃からずっと張りつめた気持ちでやってきたので、「勉強しなければ」という緊張感やプレッシャーから解放されたことのほうが大きかったのかなと思います。「中学を卒業したらどうなるんだろう」という漠然とした不安はありましたが、とりあえず苦しい勉強から逃れることができて精神的にラクになったので、その先のことは考えないようにしました。 不登校になった当初は母と怒鳴り合いのケンカをしたこともありますが、そのとき自分の考えていることを話したら、その後は「行きたくないなら無理して行かなくてもいいよ」という対応をしてくれました。母は、私に気づかれないように不登校に関していろいろと勉強をしていたようです。このセミナーに参加したり、メンタルフレンドの派遣を頼んだり、学校の先生にサポート校の選び方について相談もしていたようです。 父は私と同じ中高一貫校の卒業生なのでちょっと負い目を感じていて、不登校になったときに何か言われるかと思ったら、「嫌なら転校してもいい」と言っていると母から聞きました。このように親に責められることはとくにありませんでした。 |
井手 | 「学校は行くものだ」という思いが強かったので、当初は「行かない」という選択肢が私にも母にもありませんでした。そのため、「大丈夫だから行きなさい!」と、何が大丈夫なのかわからないんですが(笑)、無理やり登校させられたりしました。 その頃は母も私もこれ以上ないくらい荒れに荒れて、お互い大泣きしながら怒鳴りあったりしました。忘れられないのは、夜中に母が私の両肩をつかんで、「帰ってきてよ!」と言ったことです。「不登校になる前の状態に戻ってよ」という意味だったと思いますが、ものすごいショックでした。そのときのことは家の中の風景とか、肩をつかまれた痛みとか、いまでも鮮明に覚えています。 あとになってわかったことですが、母は、私が不登校になって3週間後くらいにはカウンセリングを受けに行き、週1回くらいのペースで、私が中学校を卒業するまで通っていたそうです。 父は、私の不登校について私と母の仲が悪いのが原因だと思っていて、私を母から離して祖父母の家で暮らさせようとしたり、母だけ実家に帰そうとしたりしました。でも、私が嫌いなのは父であって、「この人、全然わかってないじゃん」と思っていました。母とはケンカばかりしていましたが、それは母に対してなら自分を表現できるということであり、いつも夜遅く帰ってくる父に対しては、玄関のドアがカチャッと開く音がしたとたん、走って2階に逃げて行くという感じで、ほとんど話もしませんでした。 中学校に入ったとき、せっかく学区外の学校に来たんだから生まれ変わった気持ちでやり直したいと思いました。「普通のルートに乗らなきゃ」という気持ちも強くて、いろんな子にどんどん話しかけて友だちをいっぱいつくり、勉強も部活も委員会活動もめいっぱい頑張り、自分は変わったんだと思ったし、親を安心させたかった。 昔から完璧主義で、「自分はもっとできる」と自分を追い込んでしまうところがあり、「過剰適応」になりがちで、とにかくなんでも頑張って、いい子で、友だちもたくさんつくってという感じで全力疾走してしまう。それで結局、息切れを起こしてしまうのです。小学校のときは、いじめがあったから行けないという気持ちがありましたが、それで配慮してもらって学区外の中学校に入ったのに、また行けないというのは、自分の側に問題があると突きつけられた気がして、とてもショックでした。 その頃、母はカウンセリングを受けていたこともあって、ひょっとしたら、また中学校でも行けなくなるかもしれないという気持ちがあったみたいで、最初の頃のように混乱することもなく、学校に行く行かないをめぐるバトルもありませんでした。父も、母のやりたいようにすればという感じで、あまり口出しはしませんでした。 |
スーパーのポイントを貯めることにはまっていました(笑)
齊藤 | 不登校中の生活についてお聞きします。家族との会話や食事、生活リズム、ネットやゲーム、外出の状況、友人との関係などはどうでしたか? |
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安藤 | 中1のときは保健室登校もしなかったので、生活は昼夜逆転状態でした。とくに不登校になった直後は寝つけないことが多く、寝るのが朝方になり、夕方まで寝ている状態が続きました。その頃、母に心療内科に連れて行かれたことがあり、受診したついでに眠れないという話をしたところ睡眠導入剤を処方してくれて、それでかなり改善しました。 起きているときはとにかく暇で、やたらとテレビを見ていたので、芸能界に詳しくなったり、昼のワイドショーなどを見て世の中で何が起こっているのか情報を得ていたような気がします。 小学生の頃から映画が好きで、土日に親と一緒に映画を観に行くのが唯一の外出でした。外出するのは必ず土日で、平日のクラスメートが学校で勉強をしている時間帯は、後ろめたい気持ちで外に出られませんでした。 クラスの友だちからどう思われているのかが気になって、怖くてほとんど連絡はとりませんでした。担任の先生から1年生の終業式に「来ないか」と言われたのですが、行ったところでクラスメートにどんな顔をすればいいのかわからず断ってしまい、結局、卒業するまでクラスメートと顔を合わせることはありませんでした。 |
井手 | 最初は近所の友だちと遊んだりしていましたが、外に出ると友だちのお母さんがいて逃げ帰ったりしているうちに、だんだんひきこもるようになりました。 どうしても後ろめたい気持ちがあり、母と顔を合わせるとケンカになるので、食事も家族と一緒にとることはありませんでした。夜中にそっと1階に下りて、冷蔵庫にあるものを適当に食べたり、昼夜逆転で朝の4時頃寝て、夕方の4時頃起きるような生活を続けていました。 あまりゲームをやるほうではなかったのですが、不登校になってからは「牧場物語」という、ただひたすら荒地を開拓し、作物を育て、牧場をつくるゲームを1日13時間もやっていたことがあります。ただ、ゲームをやっていても不登校であることを忘れることはできないんですが、マンガの月刊誌を集中して読んでいるときには不登校のことを忘れることができたので、発売日が楽しみでした。 中学校で再び不登校になり、ある程度落ち着いてからは、毎日、近所の百円ショップに行くのが楽しみでした。ひとりで買い物をしたことがなかったので面白かったし、適度にひとりになれるのも楽しかった。その後、スーパーに行くことに抵抗がなくなってからは、母の代わりにポイントカードを持って毎日買い物に行ってはポイントを貯めることにはまっていました(笑)。父は仕事に行き、母は家事で忙しく、妹たちは幼稚園に行き、私だけが不登校で、家のなかで不自然な存在に思えましたが、そのうち、どっちのお店で買ったほうが安いとかポイント還元率がいいとか考えるようになり、自分も家の役に立っている気がしてうれしかったのを覚えています。 そんな感じで徐々に外に出るようになり、お昼くらいには起きるようになりました。母とは普通に話すようになり、食事も一緒にとっていましたが、父が帰ってくると自分の部屋に閉じこもることについては、同じでした。 |
高見 | 私も昼夜逆転でしたが、昼ドラを観るのが唯一の楽しみだったので、それに間に合うように昼の12〜13時頃に起きるというルールを決めていました。でも、寝るのは朝方3時頃という生活でした。 日中は、5歳下の弟が夕方早めに帰ってくるだけで、ほかに家族は誰もいません。両親とも仕事が不規則で、ほとんど顔を合わせない日もあれば、夕方に帰ってくる日もあるという感じでした。帰ってきたときに顔を合わせると、「今日は学校に行ったの?」と聞かれたりするので、ゆったり落ち着いて過ごせる時間は夕方くらいまででした。私が寝ている部屋は、個室ではなくリビングの一角のような感じで、ひきこもりになりたくてもなれない環境でした。 食事については、中学生の頃から家族それぞれの生活時間帯がバラバラだったので、外食を除けば、家族そろって食卓を囲む習慣がなく、各自が好きな時間に食べるのが当たり前になっていました。 自由に使えるパソコンがなかったこともあり、ゲームやネットをやることはなく、テレビやDVDを見ることが多かったと思います。関ジャニ∞が好きで、ライブのDVDやPVを見て元気をもらったりしました。 外出することはそんなに苦ではなく、買い物や用事があれば普通に出かけていましたが、学校が隣りの駅にあり、ばったりクラスメートと会ったら嫌だなという気持ちはありました。安藤さんとは逆で、学校で授業をやっている時間帯はクラスメートに会う可能性がないので安心して外出できるんですが、夕方など下校時間と重なる時間帯はビクビクしていました。土日は誰でもみんな休みの日だからという意味で、気楽に外出できました。 中学校の友人には、私から積極的に連絡はしませんでしたが、何気なくメールをくれる友だちもいてとてもうれしかったです。たまたま昨日、中学校の卒業アルバムを探していたら、ちょうど学校を休んでいた中2の3学期に友だちがくれた手紙が見つかりました。 試験範囲や試験日程などが書いてあり、当時のことを思い出して泣きながら読んでいたのですが、友だちにも支えられていたんだなあと思いました。 |
仮面をつけた自分から、本当の自分へ
齊藤 | 不登校中にどんなことを考え、どんなことが不安でしたか? |
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井手 | しばらくはゲーム中心の昼夜逆転生活が続きましたが、その間はつねに頭がボーッとした状態で、物事を筋道立てて考えることができなくなっていました。何が不安かということもなく、漠然と「この先いいことなんてないんだろうな」と思っていました。 先のことが不安だと思えるようになったのは、後で詳しくお話ししますが、中学校のときに適応指導教室に通いはじめてからです。先のことが不安になるということは、「自分には未来がある」ということを考えられるようになったことでもあると思います。小学校のときは、何が不安で、何がつらいのかもわからない状態でした。 自己嫌悪ということでは、母に対して申し訳ないという気持ちが強かったです。私のことが心配でカウンセリングにも通ってくれていたし、私がヘンな時間に起きても食事を作ってくれたり……。いま考えると本当にありがたかったと思えるんですが、当時は自分のためにいろいろとやってくれることが苦しくて、それに何も応えられないので申し訳ない気持ちでいっぱいでした。 そんな精神状態だったので、ひとりでいても気持ちはまったく自由ではなく、小学校のときは自殺をしようとしたことも何度かありました。でも、自殺することで母を傷つけることになると思うと、また自分もつらくなって……という悪循環でした。母と楽しそうに話そうと思っても、学校に行っていないのに楽しそうにすること自体、悪いんじゃないかと、でも落ち込んでばかりいるのも悪いしと思って……。自分を素直に出せることがほとんどない状態でした。 |
高見 | 中学校まではマイナス思考だったので、不登校になってよけいに落ち込みました。高校に入って性格が180度変わりましたが、本当はこっちが素の自分なんだと思っています。 中学校時代はそれを出せずに、いつもネコをかぶっている状態で、まわりからどう見られているかばかりを気にしていました。素の自分をさらけ出すことが恥ずかしいという思いがあり、中学校の3年間は仮面をつけたまま、つらい思いを抱えたままで行こうと思ったのです。だから、誰も知らない空間で、たとえば高校デビューと同時に最初から本当の自分を出して、いちからやり直したいと思っていました。 親にどう思われているのか、不登校のことを知っている母方の祖父母など親しい親戚にどう思われているかも気になっていました。中高一貫校なので、高校に上がれるのか別の高校に変わったほうがいいのか、中2のときからずっと悩んでいて、今後どうしようという不安は大きかったです。 |
安藤 | 外出したときにまわりから自分がどう見られているかは気になりましたが、自分自身を責めるとか、ダメな人間だと思うことはありませんでした。 校風が合わないとか、人間関係に問題があったとか、外的な要因で不登校になったわけではなく、あくまでエネルギー切れという自分自身の理由によるものだったので、その学校をやめたいわけではなかったんです。だから、保健室登校をしていて、中間試験の時期に重なったときも、「自分は試験も受けずに何をやっているんだろう」とは思わず、「みんな試験で大変だな」と他人事のように感じていました。 公立中学校に転校しても再登校できるわけではないと思っていたので、父の「嫌なら転校してもいい」という言葉にプレッシャーは感じませんでしたが、だからといって不登校が解決するわけではないと思っていました。 そうした理由もあり、中3まで転校せず、その中学校に籍を置いていたのは、そのほうが自分もラクだったからです。その中学校は、担任の先生やスクールカウンセラーも含めて、とても面倒見のいい学校だったと思っています。 ただ、この中学校に在籍していても高等部に進学できないことはかなり前から決まっていたことなので、その先の不安があったのは確かですが、とりあえずそのことは考えないようにしていました。 |
不登校になっても給食費を払いつづけた母の思い
齊藤 | ご両親の接し方で、嫌だったこと、うれしかったことを教えてください。 |
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高見 | いちばんつらかったのは、「行きなさい」「いやだ」という毎朝の母とのバトルでした。「行かなきゃいけないのはわかってるけど、足が学校に向かないんだからしょうがないじゃん」とずっと思っていました。父からも「なんで高い金を出しているのに行かないんだ」「誰が稼いだ金だと思っているんだ!」と言われましたが、感謝してるけど、行けないものは行けないわけで……。 母は世間体を気にして、カウンセリングや心療内科を避けていました。中2の不登校のとき、私は精神的にかなり落ち込んでいたので、自分からカウンセリングに行きたいと母に言いましたが、受けつけてもらえませんでした。自宅の近くにもメンタルクリニックがあり、そこに通いたいとも言いましたが、「あなたはそんなところに診察に行くような人間ではない」とか何かしら理由をつけて却下されたのが嫌でした。 私も母もカトリック教徒なので、一度だけシスターが運営しているカウンセリングルームに連れて行かれたことがありましたが、ベースにキリスト教があるので、最後は「あなたの不登校は神様が与えた試練」みたいな話になって、そういう話を聞きたいんじゃないと思い、二度と行きませんでした。 でも、シスターのアドバイスで母の対応が変わり、「私はもう学校に行けとは言わないから、行きたくなったら教えて」と言ってくれて、ずっと学校に行けない状態を母に認めてほしかったので対応が変わったことはうれしかったです。それでも私の顔を見るたびに「まだ行ってないのか」というオーラは出まくりでしたが、「行きなさい」と言われなくなっただけでも、精神的にとてもラクになりました。 実はいま中2の弟が不登校なのですが、対応が私のときとまったく同じで、毎日、「行きなさい、行きなさい」と言っているのを横から見て、「この人、学習しているのかな」と思ったりしています(笑) |
安藤 | 親には「学校に行け」と言われることも責められることもなかったし、かといって無理やりコミュニケーションをとろうとしたり、過度にかまってくることもなかったので、普通に生活させてもらえたことはありがたかったと思っています。 自分としては、病気でもないし、誰かに助けてもらう必要もないと思っていたので、通院することにあまり乗り気ではなかったのですが、母のすすめもあって心療内科に月1回くらい通っていました。その心療内科の紹介で臨床心理士の方とも話をするようになり、当時は担任以外の第三者と話をする機会がなかったので、他人と話をする機会をつくってくれたという意味でプラスになったかなと思います。 当時、母は何も言いませんでしたが、私に気づかれないようにあちこちに相談していたようです。中学校のスクールカウンセラーとも定期的に会い、その後、入学するサポート校のカウンセリングセンターにも入学前から相談していたようです。そのことについては感謝の気持ちでいっぱいです。 嫌だったのは、父方の祖父が私が不登校であることを知ってから、なんとか外に連れ出そうとしてくれたのですが、そういう気をつかわれること自体が嫌でした。 |
井手 | 小5で不登校になって間もなく、母はカウンセラーに助言されたらしく、「無理に行かなくてもいいよ」と言いはじめました。でも、本心から言っているわけではないことに気づいてしまって、もっと言えば「どこかで吹き込まれたに違いない」と思って、私の気持ちをわかったつもりになっていることにムカつきました。 父は、ヘンな占い師のおばあさんのところに行って、亡くなった父のお兄さんの供養をちゃんとしていないから、その霊が私にのりうつって不登校になっているみたいなことを言われて信じ込んでしまい、水道のある方角が悪いとか言って変えたり、お清めの盛り塩をしたり(笑)、何やってるんだろうという感じでした。私が学校に行けないのは、私の必死の「表現」だったのに、父がそんなわけのわからないことに問題をすり替えて、苦しんでいる私とちゃんと向き合ってくれないのが嫌でした。 うれしかったのは、ある日、母が妹の幼稚園バスのお迎えに私も連れて行ってくれたことです。母は最初の頃、私の不登校を他人に隠すようなところがあったのですが、その日、近所のママ友に学校に行っていない私を会わせて、「お姉ちゃん、学校は?」と聞かれとき、「ちょっとお休みしていて」と普通に答えてくれました。気持ちがラクになったと同時に、すごくうれしかった。母はカウンセリングを受けていたこともあり、中学校のときには口先だけでなく、本当に「行かなくてもいい」と思ってくれているのがわかったので、気持ちがラクでした。 あとで聞いた話ですが、母は、私が不登校になっても小学校卒業まで給食費を払い続けてくれました。「給食費の支払いをやめたら、もう行かないんじゃないか」と思ったらしいのです。だから、行ってほしいという思いと、いつ行ってもいいようにという思いから、払い続けていたようです。学校から「休んでいるので払わなくてもいい」と言われたらしいのですが、母はそのとき見捨てられたような気がしたと言っていました。 中学校に入って、お互いに気持ちが安定してきたときに、初めて「給食費どうする?」と聞かれて、いままで払ってくれていたんだと驚きましたが、自分でもしばらく学校には行かないことがわかっていたので、「やめてもいいよ。お金もったいないし」と答えました。その給食費のことをきっかけに、それまでは、学校に行かなければいけないのに行けない状態だったのに、初めて自分の意思で学校に行かないと決めたような気がして、ひとつの転機になった出来事だったかなと思います。 |
信頼しているからこそ、ケンカもできる
齊藤 | これまで3人のお話を聞いていて、海野先生はどのような感想をおもちにあなりましたか? |
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海野 | とりあえず感じたことを3つお伝えします。 1つ目は、不登校という、みんなと違う状態になったとき、なんとかみんなと同じ状態に戻さなければ、という圧力がどうしても強く生まれてしまうことです。程度の差はあれ、どのご家庭でもそういうことが起きてしまう。私たちの頭のなかに知らず知らずのうちに入り込んでいる「学校に行って当たり前」という感覚は、そこから抜け出そうと思ってもなかなか抜けられないものなのではないでしょうか。ですから、ご両親が学校に行かせようとするのは当たり前のことで、とても自然なことだと思います。そこからいろんなものが生まれてきているような気がします。 2つ目は、親との葛藤の部分です。安藤さんの場合は、ほとんどお母さんとのバトルはなかったとのことですが、井出さん、高見さんという女性2人とお母さんとのバトルは凄まじいものがありました。母親と娘の関係は、同性ということもあって歯止めがきかなくなるというか、お互いヒートアップする傾向があるのかなという印象を受けました。 お母さんは、誰よりも子どもの近くにいて一緒に過ごす時間も長いし、おなか痛めて産んだという思いもあるので、お父さん以上に責任を感じやすい気がします。そのため、どうしても子どもに対してより厳しく、よりつらく当たらざるを得ないのでしょう。とくに専業主婦で子どもとずっと一緒に家にいるお母さんは、自分自身が煮詰まってしまうことも少なくありません。一方、お父さんの場合は、会社に行けば子どもの姿は見えませんから、比較的、気楽でいられる場合も多いのではないかと思います。 高見さんと井手さんの場合は、お母さんとストレートにぶつかるわけですが、そのことについて井手さんがとても素敵な言い方をしてくれました。お父さんには言えないけど、お母さんだから言える。つまり、お母さんとはケンカばかりしていたけど、それはお母さんに対してなら自分を表現できるということだと、そんな言い方をしてくれました。私たちはよく「信頼」という言葉を使いますが、信頼しているからこそ、思ったことをはっきり言えるということを体現したエピソードだと思いました。 3つ目は参加者のみなさんにお願いしたいのですが、今日いろいろなエピソードを聞いて、たとえば、「昼夜逆転はこう考えればいいんだ」というように万能なノウハウとして受けとめてほしくないのです。それぞれの親子の間で起きていることは、それぞれの気持ちの問題として起きていることであり、それをそのまま別の家庭でやろうとしてもうまくいくとはかぎらないからです。 たとえば、高見さんは、シスターが運営するカウンセリングルームのアドバイスでお母さんの対応が変わり、「私はもう学校に行けとは言わないから、行きたくなったら教えて」と宣言したことがうれしかったと言っていました。一方、井手さんは、小5で不登校になって間もなく、お母さんがカウンセラーに助言されたらしく、「無理に行かなくてもいいよ」と言いはじめたけれど、本心から言っているのではないことに気づいてムカついたというお話でした。 ここで何が違うかというと、高見さんのお母さんの場合は、「シスターにアドバイスされたので、もう学校に行きなさいとは言わないから」という対応の変化のプロセスを話しています。井手さんの場合も、もしお母さんが「カウンセラーに助言されたから、学校に行けとは言わないようにするから」と言動の変化のいきさつを話してくれていたら状況が変わっていたかもしれません。 みなさんがこのセミナーで学んだノウハウを実際にご家庭でやってみようとするときも、高見さんのお母さんのように「今日、不登校関係のセミナーに行って、こういうときはこうしたほうがいいと聞いたから、これからお母さんはそのようにやってみようと思っているんだよ」といういきさつを話してあげるとお子さんも安心すると思います。いきなり親の対応が変わると、子どもは「自分の見えないところで何かやっている」と疑心暗鬼になりがちですが、変わった理由を説明することでその不安も解消されるのではないかと思います。 それから、安藤さんの場合は一見葛藤がないように見えますが、もし安藤さんのお母さんがここにいらっしゃったら、「いやあ、そんなもんじゃなかったんです」とおっしゃるような気がします。きっとお母さんなりにいろいろと悩んだことがあったと思いますが、もろもろの条件が恵まれていたことで、それを安藤さんに伝えなくても済んだのではないかと思います。 最後に「自分を責める」ことについて言うと、親から責められて「なんて自分はダメな子なんだろう」と自分を責めてしまうパターンはけっこうあります。高見さんは「いい子でいなければ親から見捨てられるのではないか」という不安をもっていたということですが、これは不登校の子どもに限ったことではありません。どんな子でも、親から見捨てられる不安をもっているんです。そうした不安が自分のなかでそんなに大きな比重を占めない場合は、とくに問題にならずに済むわけですが、不登校でお母さんを悩ませたり心配させているという状況があると、親から怒られたり叱られることが重なるにつれて見捨てられる不安が大きくなっていくことがあるでしょう。 このことに関連して、井手さんは、お母さんに対して申し訳ない気持ちが強かった、自分のためにいろいろやってくれるのに何も応えられないので申し訳ない気持ちでいっぱいだったと話していました。でも、当時は井手さんが申し訳ない気持ちをもっていることを、お母さんはわからなかったかもしれない。お母さんに何か言われれば、井手さんは弁が立つからお母さんに反論したでしょうし、お母さんは言われるままの状態だったかもしれませんが、陰では井手さんも「こんな自分じゃダメなんだ」という思いをもちながら、ずっと自分を責めつづけていたんだと思います。 安藤さんの場合は、あまり自分を責めることはなかったそうですが、反面、自分は他人にどう見られているかをずっと気にしていた。ウィークデーの日中に中学生が外を出歩くとヘンに思われるのではないかとか、気持ちのなかではいろいろ苦しいことがあったんじゃないかと思います。 |
※この続きは、「Part.2」 で読むことができます。