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【2組の親子によるトークライブ】子どもに聞けなかったこと、親に言えなかったこと Part.1

登進研バックアップセミナー56 第1部抄録(2006年11月23日開催)

ゲスト

A子さん(19歳、大学生)+A子さんのお母さん(以下、A子ママ)
B男さん(19歳、大学生)+B男さんのお母さん(以下、B男ママ)

司 会

海野 千細(八王子市教育委員会教育指導課心理相談員)

助言者

荒井 裕司(登進研代表)

※ゲストの方々の年齢等は、セミナー開催時のものです。

 

どうしてうちの子だけレールに乗れないのだろう?

海野

 最初にゲストの方々に簡単な自己紹介をお願いします。お名前、年齢、家族構成のほか、学校に行けなくなった時期やきっかけ、不登校になった当初の気持ちなどについて教えてください。

A子さん

 こんにちは、A子です。現在、大学の教育学部の学生です。両親と4歳年上の姉の4人家族です。
 中学受験して私立の中高一貫校に入学しましたが、バドミントン部内のトラブルに巻き込まれ、中2の4月から登校できなくなりました。
 半年ほど保健室登校を続けましたが、その後もトラブルが重なり、担任の対応にも納得できず、中2の秋に地元の公立中学に転校しました。ところが、そこでも担任に冷たい対応をされたりして、3日くらい通っただけで、また行けなくなってしまいました。

 その後、祖父が住んでいる場所に寄留(一時的に住所を移すこと)し、その近くの公立中学に転校しましたが、女子グループ間の板挟みにあって、再び行けなくなりました。

 何度転校しても通えず、どこにも居場所がなくなってしまったけど、ずっと家にいるのは嫌だったので、自分でフリースクールを探して通いはじめました。顔見知りがいる地元は避けて、ちょっと遠いけど電車でそこまで通いました。最初は戸惑いもありましたが、だんだん楽しくなって毎日通っていました。
 高校は、そのフリースクールと提携しているサポート校に入学しました。

B男さん

 B男です。大学で日本史を勉強しています。両親と自分の3人家族です。
 現在は普通に大学に通っていて、不登校だった頃のことをじっくり考える機会はあまりありませんが、当時のことを振り返ってみることは自分にとっても大切なことだと思い、今日はやってきました。

 親の「中学に入ってしまえば楽だから」という言葉を信じて私立中学を受験し、中高一貫校に入学したものの、入ってみたらぜんぜん楽じゃないし、小学校時代の友だちもいないし、勉強にもついていけなくなり、1年の2学期から登校できなくなりました。

 とくに決定的なきっかけはありませんが、それまで両親の言うとおりにしていれば間違いないという感じでやってきて、ところが、中学受験で親の言うことが疑わしくなり、親が疑わしくなると誰のことも信じられなくなって、自分の部屋にひきこもるようになりました。その後、3年間ひきこもりを続け、中3のときにちょうどいいタイミングで親にすすめられたサポート校に見学に行き、入学しました。

海野

 次に、お母さんおふたりに、お子さんが不登校になった直後の気持ちをお聞きしたいと思います。

A子ママ

 今だから話せますが、中2から中3にかけては本当に地獄のようにすさまじかったです。その頃、娘と車に乗っていて「このままスピードを出せば死ねるかも」と思ったこともあります。不登校になってから、次から次へとめまぐるしく環境が変わり、そのたびに新しい環境の中で親も子もやり直そうと頑張ったけれど、すべてが裏目に出てしまった感じがします。

 きっかけとなったバドミントン部内のいざこざは、本人から聞いていましたが、自分でなんとか解決するだろうし、子どものトラブルに親が出ていく必要はないと考えていました。そもそも最初はこんなことで不登校になんかならないだろうと思っていたんですが、状況が変わるにつれて焦ってきました。
 やがて、「この子の将来はどうなるんだろう」「中学校は卒業できるのだろうか」という不安がどんどん大きくなっていきました。

B男ママ

 私立中学が自宅から遠くて通学時間が長いので、最初の頃は「ちょっと疲れているのかな」という印象はありました。でも、私はスパルタ式なので、「ちょっと疲れているからってなんなの!」という感じでした。

 中学受験については、「入学してしまえば楽になるから」と言いくるめるというか、確かにだましていました。小4で塾に入れたら予想以上に勉強ができたので、「トンビがタカを生んだのではないか」と期待してしまったのかもしれません。

 不登校の予兆のようなものは小4で塾に通いはじめた頃からありました。4年の途中で「塾は嫌だ」と言われて、やめさせたこともあります。いったん中止して、5年になってまた通わせましたが、塾に行く時間になると微熱が出ることもありました。そうしたSOSのサインを見ないふりをして塾通いを続けさせました。

 小5の終わり頃、父親が仙台に単身赴任することになり、以降、私の独裁体制が強まったように思います。その影響もあり、小6の夏休みに再び塾に行きたくないと言い出したため、仕方なく塾はやめさせることになりました。その後、11月頃に家庭教師をつけて特訓をしてもらったら、どうにか親の納得する私立中学に入学することができました。

 不登校の原因は中学受験にあると思っていて、それを仕掛けた私に責任の一端はあります。本人が「中学受験はしたくない。みんなと同じ学校に行きたい」と言ったのに、私が無理やりレールに乗せて受験させたわけですから。でも、同じ塾に通っていたほかの子たちは全員レールに乗っていけたのに、どうしてうちの子だけがレールに乗れないんだろうと思っていました。

「消えてしまいたい」という思い

海野

 不登校中の生活の様子、たとえば、ご両親との会話、食事、外出、生活リズム(昼夜逆転など)はどうだったのか、教えてください。

B男さん

 最初の3カ月は自分の部屋にカギをかけ、入り口にバリケードを作って、ひきこもっていました。しばらくひきこもったあとは、精神的に少し落ち着いてきたような感じがしました。

 その頃は、母がパートに出る前で一日中家にいたので、昼夜逆転の生活でした。母と顔を合わせるとどうしても学校の話になるので、それを避けたかった。母が寝てしまえば顔を合わせないで済むので、「夜はおいらの世界」という感じでした。
 その後、母がパートに出るようになってからは、日中も自分ひとりだから部屋から出られるし、寝ている必要もなくなり、昼夜逆転は改善されていきました。

A子さん

 私も最初は、昼夜逆転の生活を続けていました。規則正しくなったのはフリースクールに通うようになってから。次の日に何か予定があると、「早く寝なきゃ」と思うから昼夜逆転は自然になおる。逆に予定がないと、「別にいいや」とか思ってダラダラ起きていて、寝るのが朝方になったりします。

 不登校ということで後ろめたさがあり、地元の人には会いたくないので、外出するときはいつも車でした。だから、車で遠くのショッピングモールとかには行けるんですが、近所のコンビニには行けませんでした。

海野

 不登校中はどんなことを考え、どんなことが不安でしたか?
 つらくなって、「死にたい」と思ったことはありますか?

A子さん

 死ぬのは痛いし…。死ぬというよりは、「消えてしまいたい」「一瞬にしてなくなってしまえばいいのに」と思ったことはあります。
 台所で母が料理をしているとき、そばで包丁を持って震えていたこともあります。「母が包丁を取り上げてくれなかったらどうしよう、死んじゃう」と思ったりしました。「死んだら、何人の人が泣いてくれるだろう」と考えることもありました。

B男さん

 ひきこもっているときに、包丁を部屋に持ち込んだことがあります。死ぬ勇気はなかったけれど、自分がこれだけ悩んでいるということを母に伝えたかったというか、母を試していたんだと思います。「どうして行けないの?」と聞かれても答えようがないので、苦しまぎれに「学校が遠いから」とか言っていました。

 親は学校に行かせることしか考えていないし、自分の考えもまとまっていなかったので、親には何も話すことはありませんでした。というよりも、これからのことを考えること自体、しないようにしていたんだと思います。そういう意味では、「ほっといてくれ」という気持ちだったと思います。

親がお膳立てしたことはことごとくパー

海野

 当時、親としてどんなことを考え、どんなことが不安でしたか?

A子ママ

 いろいろ悩んだ末に私立中学をやめることになり、学校で除籍の書類に印鑑を押すときは涙が出てきました。
 そのとき、校長先生にお礼を言おうとあいさつに行ったら、「退学は娘さんの傷になるんじゃないか」と言われて、「絶対に傷になんかするもんか」「お礼なんか言うもんか」と思いました。でも、その一言でふんぎりがついた感じもあります。

 その後、地元の公立中学に転校するとき、地元にはたくさんの友だちがいたので、みんな歓迎してくれると思って、担任の先生にも私立中をやめた理由について何も話しませんでした。でも、あとで話しておけばよかったなと思いました。

 不登校になってから勉強のことがいちばん気になっていたので、個別学習スタイルの塾に通わせましたが、途中で嫌だと言って行かなくなりました。
 今、考えてみると、親の私がお膳立てしたことはことごとくパーになり、すべてうまくいかなかった。逆に、娘が自分で決めたことは最後までやり通している感じがします。

B男ママ

 主人が転勤族でたまに週末に帰ってくるだけでしたから、子どもが不登校になってからは、家の中でずっと2人きりで精神的にきつかったですね。
 中学受験については、私はいい大学に入って、それなりの大手企業に入れば生活が楽だし、それが本人の幸せにつながると本当に思っていますから、正直、悪いことをしたとは思っていないんです。

 子どもが不登校になって3カ月くらいは自分を否定して苦しんで、自分の価値観を変えようと必死に頑張りました。でも、自分の考え方が間違っているとはどうしても思えない。それからは自分を否定するのはやめましたが、私の考えを子どもに押しつけないようにしようと思いました。

 結局、子どもが不登校になったからといって、私の価値観はあまり変わっていません。人の人生には学歴も必要だし、できれば大きな会社に入ったほうが楽だとも思います。しかし、子どもにそれを押しつけるのはやめようと。今でも心の底では押しつけたいところがありますが…。

B男さん

 母の価値観に異論があるわけではないんですが、私にはその価値観についていって、その期待に応えるだけの根性がなかったのかなと思います。不登校になったのは、やはりどこか精神的な強さが足りなかったのかもしれません。

B男ママ

 息子は、塾でいい成績をとっても「やった!」と思うタイプではなく、勉強ができることにあまり価値を見いだせない子でした。その点で、この子は思いのほか頑固で、意志が強かった。
 その後、この子の気持ちが少し落ち着いてきてからは、週末に帰ってきた主人と一緒に話したり、この子が心を許していた中学校の先生もかなりの頻度で来てくれたので、先生が来ると部屋に入れて話をすることがかなりありました。

「お母さんは、全身から行け行けオーラが出ている」

海野

 ご近所や親戚(祖父母など)との関係や、家庭内の問題で何か大変なことや印象に残っていることはありますか?

B男ママ

 実家の母に娘の不登校のことを伝えたところ、「この世で起こったことは、すべてこの世で解決できるから、深く考え込まないほうがいい」と言ってくれました。また、私の兄には「とにかく子どもに何も言うな。お前は口で『いいのよ』と言いながら、背中で『ダメ』と言うタイプだから、背中でも目でも言うな。信じて見守っていればいい。勉強はどうにでもなる」と言われました。
 主人の両親にも伝えましたが、何か誤解していたのか、無頓着なのかわかりませんが、とくに何も言いませんでした。

 ただ、近所に息子と同じ私立中に行きたいというお子さんがいて、お母さんから学校の様子や情報を聞かれたときは、きついなあと思いました。同じマンションの親しい方には、この子が不登校になったことを伝えました。唐突に「うちの子、不登校になったんです」と(笑)。

A子ママ

 仲のよい友人には、娘のことは伝えていました。自分が頑張れば、子どもも頑張るんじゃないかと思って、自分から「やります」と保護者会の役員を引き受けましたが、正直、娘が不登校なのに役員をやっているのはきつかったです。

 娘がサポート校に入学が決まってから、中3の3月に引越しをしました。近所の人にも娘の状況をすべて知られていて精神的に苦しかったので、引越しをすることで気持ちが楽になりました。でも、引越し先でも、娘に「お母さんは、全身から行け行けオーラが出ている」と言われました。

 いろいろな意味で精神的に助けてくれたのは、この子の4歳上の姉です。その都度、いろいろとアドバイスをしてくれて、冷静に対応することの大切さを教えてくれて、意外と大人でした。主人は仕事で帰りが遅いので、上の娘のアドバイスはありがたかった。よき相談相手でした。

海野

 お父さんの対応はどんな感じでしたか?

A子ママ

 どちらかと言うと、主人のほうが娘のことをよく見ていた感じがします。「あの子は自然児だから、ほっとけばいいんだよ」とよく言われました。私にとっては、娘は自分の分身のようで客観的に見ることができませんでした。

A子さん

 小学生の頃、私が部屋でマンガを描いていると、ドアを開けて「勉強しなさい!」と言うのがお母さん。お父さんは「なんだマンガを描いているのか。じゃあ、おやすみ」という感じです。

B男ママ

 主人は「自分の子どもを信じよう」という対応の仕方で、口数は少ないものの、とても落ち着いて対応してくれました。単身赴任中も、息子がひきこもっているときなどは、よく赴任先の仙台に電話をして相談をしました。
 本人に対しても、最初に一度だけ「どうするんだ? 学校に行きなさい」と言ったことがありましたが、そのあとは何ひとつ責めたりしませんでした。

 単身赴任中に息子ひとりで仙台に遊びに行き、1カ月間、父子2人で過ごしたこともあります。息子にとっては気分転換になり、私もひとりになれて解放され、精神的にかなり楽になりました。息子が中3の秋に、主人が単身赴任を終えて帰ってきて以来、毎週土曜日は主人と息子の2人だけで1時間くらい散歩をしています。

B男さん

 仙台に1カ月くらい遊びに行ったときも、父は不登校について一切ふれませんでした。単身赴任から帰ってきて、これからどうしようという話はしましたが、それほど突っ込んだ話にはなりませんでした。

海野

 お子さんへの対応や声かけなどで、気をつけていたことはありますか?

A子ママ

 親である私が勝手に動いても、うまくいかないことがほとんどだったので、必ず本人の意思を確認することが大切だと思っています。娘のためによかれと思ってやったことがことごとく失敗に終わっても、その日のうちに「仕方ないや」とあきらめることができるようになりました。娘の不登校を経て、「娘は娘、私は私」と気持ちを切り替えられるようになったかなと思います。

B男ママ

 息子の気持ちがわからなくて、その頃、息子が言ったことをかたっぱしからメモして、あとで読み返したりしていました。
 たとえば、(当時のメモを取り出す)「もし、この状態を言葉にすることができるなら、半分は解決しているんだよ」とか、母親の私が正しいと思って話していることに対して、「正しいことはもういい! すべてわかっているんだから」とか、「家の中の居心地が悪い」とか…。今、考えてみると、私の思いどおりにならない息子のことがわからなかったんだと思います。

「父ととっくみ合いのケンカになって…」

海野

 ご両親の言葉や対応などで、うれしかったこと、嫌だったこと、何か印象に残っていることはありますか?

B男さん

 母がパートに出るようになってから、毎朝、部屋の前にお盆に乗せた朝ごはんを置いておいてくれたのですが、そこにメモをつけてくれるのがうれしかったです。「おーい元気ですか? 体を大切にね。冷蔵庫にシュウマイ、レンコンのきんぴらが入っていますので、チンして食べてください」とか、何気ないメモなんですが、それがうれしかった。
 嫌だったのは、不登校の初期の頃、顔を合わせるたびに「どうして行かないの?」と聞かれるのがとても嫌でした。

A子さん

 バドミントン部でのトラブルに巻き込まれ、学校に行くのがつらくなって、しばらく不登校状態が続いたとき、母が「つらかったら、学校をやめてもいいんだよ」と言ってくれたのがうれしかった。
 学校は「行くものだ」という思いが強かったので、「そうか、そういう選択肢があったのか」と目の前が明るくなった気がしました。

 母は以前は「勉強しなさい」ばかり言っていましたが、不登校になってから「○○しなさい」は言わなくなり、前よりうるさくなくなった。そこがよかったです。

 父はめったに怒らないんですが、一度ひどく怒って、私ととっくみ合いのケンカになったことがあります。
 父は不登校についても何も言わないので、「どう思っているんだろう」「私に興味がないのかな」と思ったりして怖かったのですが、そういう意味では、とっくみ合いのケンカをしてよかったと思っています。父も同じことを思ったようで、一度はこうしてぶつかり合うことも必要なのかなと思います。

海野

 当時、親御さんに何かしてほしいと思ったことはありますか? それとも、動き出すまでは何もせず、黙って見守っていてくれたほうがいい?

B男さん

 自分はあまり自主性がないほうなので、見守られているだけでは動き出せなかったと思います。中3のとき、母がサポート校に見学に行こうと声をかけてくれなかったら、ずっと動き出せないままだったんじゃないか…。
 そのときは、「救いの手」が降りてきたような感じで、ここで見学に行かなかったら、いつやり直すきっかけがつかめるかわからないし、ちょうどいい機会かなと思い、一度は疑った親をもう一度信じてみようと思いました。

 中学受験して入った私立中での挫折体験があるので、サポート校に入ってもまたダメかも…という不安がないわけじゃないけど、その不安よりも、二度とやり直せなくなることのほうが怖かった。その結果、親を信じて正解だったと思っています。
 だから私の場合は、いいタイミングで働きかけてくれたことがよかったのではないでしょうか。ただ、そのタイミングを見計らうことは難しいとは思いますが。

A子さん

 私立中で不登校になり、転校した地元の公立中や、祖父の家の近くの公立中でも行けなくて、もうどこにも居場所がなくなったとき、母が「こういうところがあるよ」と教えてくれたのがフリースクールでした。

 それまでフリースクールについて何も知らなかったので、どこがいいのか自分でネットで検索して、HPをまめに更新しているところを選んで問い合わせのメールを出して、そこに通うようになりました。それまでは昼夜逆転の生活でしたが、行くところがあると朝もちゃんと起きられました。

 母には、「学校見学とか、一緒についてきてと頼んだときだけ来てくれればいいから」と言ってあったので、基本的には私に任せてくれて、ほうっておいてくれたのがよかったと思っています。

海野

 彼らの感想を受けて、おふたりのお母さんに伺います。お子さんが動き出すまでじっと待ちつづけた感じですか?

A子ママ

 親として、子どもに勝手にレールを敷くのはやめようと思っていましたが、その一方で、不登校関係の本をたくさん読んだりしていました。
 それらの本で得た知識をもとに、フリースクールについても「こういうところがあるよ」という情報を伝えるだけにとどめ、フリースクールに行くか行かないか、どこのフリースクールにするかは、娘の意思に任せようと考えていました。

 それまで私はなんでも命令口調だったのだと思います。「〇〇しなさい」「〇〇はやめなさい」と、娘に指示ばかり出していた。この子が不登校になってはじめて、それに気づきました。娘が自主性があることも、命令されるのが大嫌いなことも、ずっと気づかなかったんです。

 その後、娘はネットで自分に合うフリースクールを探して、自分で問い合わせのメールを出し、見学に行ってそこに通うと決めました。「自分で決めたことだから」と休まず通っていました。

B男ママ

 あの頃は、テレビでも不登校関連の番組をたくさんやっていて、よく観ていましたが、息子にも「一緒に観よう」とどんどん言っていました。

 私立中を休みはじめたとき、「そうだ、最終的には公立中に行けばいいんだ」と思って、担任の先生に相談したところ、「彼ならもう少し頑張れば来られるようになるから、もう少し待ってみませんか」と言われ、「また行けるようになるかも…」と期待してしまい、結局、私立中に3年間在籍したままでした。

 もしかして学校が遠いから行けないのではないかと思い、学校の近くにアパートを借りたこともあります。担任の先生と私と息子の3人でアパート探しをして、契約を済ませたと思ったら、息子が「アパートを借りても、僕はたぶん行けない」と言い出して…。それでも私は「大丈夫、やってみたらきっと楽しいから」とか言って強行したのですが、結局、そのアパートで生活したのは1カ月くらいでした。

「不登校になったことをマイナスと考えたことはありません」

海野

 自分が不登校であることを受け入れられるようになったのはいつ頃ですか?

A子さん

 中2のときに完全に行けなくなってから、「ああ、これは不登校なのかなあ」と思いましたが、自分としては、不登校というよりは「登校拒否」という感じが強かったと思っています。その後、フリースクールに通いはじめても、「正式な」学校には行っていないので、「不登校」という意識は消えませんでした。

 フリースクールでの生活は楽しかったのですが、堂々と「私、フリースクールに通っています」とは言えませんでした。サポート校のときも、在校生のほとんどが不登校を経験した子たちだったんですが、それについては暗黙の了解というか、お互いにあえて不登校だった頃の話はしない感じでした。完全に不登校から抜け出したと思えるようになったのは、大学に入ってからかもしれません。

B男さん

 自分としては、最初の頃から「不登校で何が悪い」と思っていました。学校に行かないで、ひきこもっていることに誇りがありました。自分の意思で不登校になったという意識が強く、ほかの人になんと思われようと関係ないと思っていました。
 これまで不登校になったことをマイナスと考えたことは一度もありません。そのため、家の外に出たり、人と話すことにも抵抗はありませんでした。

海野

 子どもの不登校を受け入れられるようになるなど、親としての関わりの転機になったことはありますか?

A子ママ

 娘が不登校のときは、いつも娘のことしか頭にありませんでした。
 娘の部屋は2階にあり、学校に行くときは階段を下りてくる足音がします。毎日、「今日は階段を下りてくるかしら?」と考えつづけていましたが、そんなことを考えているうちはダメでした。

 娘がまったく笑わなくなった時期があり、それがひとつの転機になった気がします。その頃、娘は心療内科に通っていて、そこの処方薬を飲んでいたら、「チョウチョが飛んでいる」とか言いはじめたんです。薬の副作用かなと思って、すぐに服用をやめさせましたが、そのときはじめて、「この子が元気でいてさえくれればいい」と思えるようになりました。

 以来、不登校のわが子を受け入れることができるようになりましたが、それまでにはかなり時間がかかりました。フリースクールに通うようになり、娘と顔を合わせない時間ができたことも大きかったと思います。それでかなり気持ちが楽になり、子どものことを考える時間も少なくなっていきました。

B男ママ

 いざ子どもが不登校になってみると、黙って見守るなんてとてもできないと実感しました。友人に相談されたときは、「静かに見守ってあげるのよ」「その子の人生なんだから、あなたは親として別のことを考えようよ」とか、ずいぶん立派なことを言っていましたが、いざ自分のこととなると、そんな立派なことを言える余裕なんかまったくありません。

 それでも息子が中3になる頃には、親としても慣れてきて、学校に行かなくても元気にしていればいいんだと思えるようになってきました。
 中3のときの1年間は、昼食時に家族で外食に出かけたり、楽しく何事もなく時間が流れていった感じでした。不登校であることを忘れたわけではありませんが、葛藤がなかったので、静かに生活することができたのではないかと思っています。

B男さん

 不思議なもので、親がそういうスタンスになってくると、親への敵意みたいなものが消えてきて、自然と家の外にも出られるようになっていきました。

B男ママ

 息子が不登校になってしばらくして私がパートに出たことも、ひとつの転機になったかもしれません。家にいるとどうしてもかまってしまうので、息子は私と顔を合わせないように、部屋にこもってしまうことが多かった。私も、パートに出ることで息子が日中ブラブラしている姿を見なくて済むので気が楽になりました。

 食事は、私が出かける前に作って部屋の前に置いておくようにしました。昼夜逆転しているときは、冷蔵庫に余分に食事を入れておくと、夜中に食べたりしていたので、別に心配はしませんでした。
 この頃から、パートに出かける前にお風呂掃除やトイレ掃除などを頼んでおくとやっておいてくれるようになり、うれしかったです。

※この続きは、「Part.2」 で読むことができます。

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